clair-obscula

昨日はよく晴れた日で、狩りに行くつもりだったけど流れで部屋で積ん読をしていた。そういえば朝の散歩以外は外出しなかったな。

それで「みんなが河原ではしゃいでるとき おまへはその光で  音を編むのだ(空いっぱいのパイプオルガンの音を」かなんかの宮沢賢治のあれと、そこに自分を重ねていた研究室時代を想ったり。研究室時代というか現在もそこに身をおいてる友人たちのこと。

世間的にはあまり出てこないけど、院生や研究者というのは土日なしで研究室詰めで、それはまあ「好きでやってるから」てのもあるけど、よく晴れたピクニック日和なんかはけっこうキツイ。

それで「そういう日には『なにやってんだろー』てどっかいきたくなるよねー」「晴れた土日ほどきついよー」て笑っていったりするわけだけど。


一日蟄居ということもあって中島ノブユキさんの「clair-obscula」をちゃんと聴く機会を得た。

このピアノアルバムは移動しながらiPodとかではちゃんと味わえないので。コンサートホール的環境でしっかりと聴くと味が出てくるのだろう。あるいは文字通り蟄居状態。

clair(光)-obscula(暗い)

obsculaはだいたいにおいてcameraとセットで使われることが多くて、camera-obsculaはすなわち「暗い箱」を表す。「暗い部屋」であり「暗い箱」。

ピンホールカメラの原理だと光を一旦一点に集めて乱反射を制御し、それから再構成する必要がある?ようなので。結果として暗い部屋が必要みたい。

「現実を再構成するためにいったん暗い部屋が必要になる」「小さな穴かとそこから射し込む僅かな光から現実を濾過して再構成する」

それは我々があの「暗い部屋」でやっていた(る)ことなのだなあ、って。


「光を映えさすには闇が必要」なんてのは使い古された修辞的でそれだけだとどうということもないのだけれど、「clair-obscula」というアルバムを聴いていると、その言葉以上の説得力で、われわれがやっていた(る)ことを、ヤサシク見守っている人たちが、あるいは同じような寂しさと誠実さを持っている人たちが、いるんだなって、思えた。


(みんなが町で暮らしたり

一日あそんでゐるときに

おまへは

ひとりであの石原の草を刈る


そのさびしさで


おまへは


音をつくるのだ



さあ



ちからのかぎり


そらいっぱいの


光でできた


パイプオルガンを


弾くがいい)









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