寒天に溶けないナゾ

今日はバイト休みなので朝のうちにジョギングに行く。昨日バイトいくときに橋の上から眺めてあの草原を走りたく思ったので。


自分的にはそんなに寒くない印象だったけど走りに出ると道のくぼみに氷が張っていて「寒かったのだな」と思う。地面には霜が降り霜柱が立つ。


直前まで読んでいたのは熊倉伸宏さんの「死の欲動」で、これはあらためてブログのエントリに起こそうかと思う内容だったのだけど、今朝の出走に直接関わる箇所として「意味にとらわれずにもっとぼーっとする時間をもとう。己の中の自然/それ(es)に向きあおう」というようなものがあった。


人の生/死はそんなに理知的に割り切れる/明確にできるものでもなく、生活の中のふとした瞬間のふだんとは違う気づき、ちょっとした奇跡への気づきが死を留まらせたり、あるいは生を実感させている。それは風の音であったり木の葉の裏を陽光に透かしたときに見える葉脈の色合いだったりする。現代人は特に『意味』のマトリクスに囲まれてきているが、そもそも人間が生きるということの意味ははっきりしないものであり、死の欲動に突き動かされたとき、あるいはそれに真摯に向かい合うとき、死の欲動が異常なのではなくそれはそもそも元々あったものではないか?と気づかされる。そして、そのような場面でそのまま死へと踏み出すか、あるいは、反動的に生 - 世界の不思議と奇跡を実感するかは紙一重である。


これは自分の哲学の先生も「存ることの不思議」として言ってたけど。ああいうものはたぶん論理的、理知的に説明できるものではなく、各人がそれぞれに感じるしかないものなのだと思う。各人によって感じ方、答えも違うのだろうし(おそらくそれが人生の意味であり答えに通じる)。


走りながら熊倉さんのいっていた自然への感性、「子供の頃はあんなになにもなくても満ち足りていたじゃないか。手のひらを陽にかざして血管を透かして見るだけでも」、に自分の子供の頃や松本大洋の一連の作品を想う。

それをもう少しいわゆるアート的に表現すればタルコフスキー(ノスタルジア)になるのだろうし、詩的に表せば松浦寿輝さんのそれのようになるのかもしれない。


「帰ったらSunnyが読みたいな」と思いつつ約束の草原にたどり着く。


足の裏の芝生の柔らかい感触にネコの和毛を想いつつ、その上で跳ねるように走る自分はうさぎか蚤かと。



走りの仕上げに歩いていたら陽を受けて溶け始めた氷に気づく。溶け始めてる+子供っぽい感触を思いだしたく足裏ですこし割ってみる。「もっとそのものを感じてみるといい」と思い手袋をとって手を氷に押し当てる。ジョギングで火照った体に気持よく、思ったより厚みがあってなかなか割れない。ベニヤ板ぐらいの感触。割った氷をつまんで太陽に透かしつつ「ガラスを初めて作った人は氷を自分で作れたような気持ちになったのかもなあ」と想う。


ひだまりになかなか溶けない謎を残して家路につく。




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