見出し画像

日本初のシンガー&ダンスコリオグラファー

「振り付けに関しては、昔からの仲間を集めてグループ(Electric Wave)を作って、先生につかずに自分達で試行錯誤したものです。」
風見慎吾 Oricon 1985

タイトルの横文字、ちょっとヘンかも。「歌って踊って、振り付けも」ということを「シンガー・ソングライター」みたいに言いたくて、語を当てがってみたのですが。

要は、慎吾ちゃんが「自作をしていた」ということを言いたかったんです。それはアイドルとして初めてのこと。もちろん、曲ではなく「ダンス」を。

「振り付けも全部自分が考えてウェイブに持ってって、みんなで踊りながら彼らの意見も取り入れていったしね。ほんとに『涙のtake a chance』を作るまでの過程で、スタッフやウェイブやみんなと一生懸命取り組んでやったんですよ。」  風見慎吾 BP New Year 1985

shueisha 1985

当時のアイドルは歌も振り付けも与えられたものをこなすのが普通でした。しかし、慎吾ちゃんは元々自由に踊るストリートダンサー。劇団に入ってからは台本作家顔が可愛かったためアイドルになってしまいましたが、本質的にはクリエイターなのです。

「やれることは、自分でやりたいですね。ぼくはやはり演じる人よりも作る人になりたいな。」 風見慎吾 shueisha 1985

人に全面的に任せたり従ったりすることが自分の性に合わないのです。

「曲の構成、踊りの振り付けはもちろん、パンフレットや会場で売ってるTシャツやステッカーまで自分でやったよ。もちろんプロじゃないから最高とまではいえなくても、自分でとにかくやりたかった。」  
風見慎吾 shueisha 1985

Whoopee Ghaapee 1985年

それまでジャニーズなどアイドルのダンスは、たとえトシちゃんみたいにいくら上手くても、何かに「従っている」感がありました。そのことを世の若者たちは無意識に読み取っていたのだと思います。振付家やディレクター、そして強大なプロデューサーの傘下にあってのパフォーマンスであるということを。なので、昭和のイキのいい若者は彼らの踊りに引き付けられることはありませんでした。もちろん、王子様に憧れるような女の子のファンはたくさんいましたが。

「ボクははじめて大将にさからった。“ やりたいことがあるんです。やらせてください!”って。」    風見慎吾   shueisha 1985

そこに、慎吾ちゃんがアイドルとして初めて「従ってない、支配されていない」踊りを見せました。自身の奥底から湧きあがってくるままのダンスを。「自分はこうなんだ、これがやりたいんだ、これを伝えたいんだ」と体で現し、そのことが若者たちの心を掴んだのです。

テレビの前の人々は初めて見るブレイクダンスに度肝を抜かれましたが、そもそも彼の踊りはその根底がそれまでのものと全く違っていたのだと今改めて思います。

そして、若者たちはその違いを理屈抜きで感じ取っていたのだと。突き上げるような、迫りくるような踊りを目の当たりにして。

shueisha 1985

この時代、世の少年少女は高校生になるごろからアイドルへの関心が薄れていき、自作自演のアーティストやバンドに興味が移っていく傾向にありました。ブルーハーツやBOØWYなどのバンドがブームになっていました。テレビでいろんなアイドルを見るよりも、お気に入りのミュージシャンのアルバムをじっくり聴きたい。アーティスト自身が生み出す世界を堪能したい。若者の嗜好や鑑賞スタイルはそんな感じだったと思います。

アイドルだったチェッカーズもデビュー数年後には自作の楽曲リリースに舵を切り、晃司クンも作曲したり他のミュージシャンと組んだりするようになりました。

そのような流れが始まる前に、慎吾ちゃんは踊りでいち早く本格的な作品プロデュースに挑んだと言えます。

shueisha  1985

願わくばもっと歌手活動が長かったらと。なので、慎吾ちゃんのことを横文字で「シンガー」と言うとなんだか大仰な感じ。「シンギングダンサー&コレオグラファー」あたりが妥当かな。

☆彡

勢いがあった日本。若者たちは今よりもずっと強く自己実現を求め、自立に喘いでいた。皆、自分の力だけで何かを掴みたがっていた。前しか見えなかった。挑まずにはいられなかった。それが80年代



2022/12/3