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横浜流星主演・『ヴィレッジ』をナメてた

横浜流星さん主演の『ヴィレッジ』、鑑賞しました。
いや~良かったですよ~。
大括弧できちんと閉じられた美しい数式を見たような伏線回収に、
鑑賞後はふぁ~っとため息のような、感嘆の声のようなものが漏れ出る鑑賞体験でございました。よきよき♪

物語としてはどうしても暗く重たいのは事実なんですが、社会を経験した大人ならなんてことはない、絶望的なまでの自分への閉塞感ってやつを二時間ぐらい味合わされ続けるだけです。

物語に『能』を通底させ続けたのが、凄かった

このヴィレッジという映画を理解する上で、どうしても必要になってくるのが能の演目の一つである『邯鄲(かんたん)』という作品。

昔、中国の蜀という国に、盧生(ろせい)という男が住んでいました。彼は、日々ただ漠然と暮らしていたのですが、あるとき、楚の国の羊飛山に偉いお坊さんがいると聞き、どう生きるべきか尋ねてみようと思い立ち、旅に出ます。羊飛山への道すがら、盧生は邯鄲という町で宿を取りました。その宿で、女主人に勧められて、粟のご飯が炊けるまでの間、「邯鄲の枕」という不思議な枕で一眠りすることにしました。邯鄲の枕は以前、女主人がある仙術使いから貰ったもので、未来について悟りを得られるといういわくつきの枕でした。

さて、盧生が寝ていると、誰かが呼びに来ました。それは楚の国の皇帝の勅使で、盧生に帝位を譲るために遣わされたと言うのです。盧生は思いがけない申し出に不審がりながらも、玉の輿に乗り、宮殿へ行きました。その宮殿の様子と言ったら、壮大で豪華絢爛、驚くほど素晴らしく、極楽か天宮かと思われるほどでした。

盧生が皇帝になって栄華をほしいままにし、五十年が過ぎました。宮殿では、在位五十年の祝宴が催されます。寿命を長らえる酒が献上され、舞人が祝賀の舞を舞うと、盧生も興に乗り、みずから舞い始めました。すると昼夜、春夏秋冬が目まぐるしく移り変わる様子が眼前に展開され、盧生が面白く楽しんでいると、やがて途切れ途切れになり、一切が消え失せます。気づけば宿の女主人が、粟ご飯が炊けたと起こしに来ていて、盧生は目覚めます。皇帝在位五十年は夢の中の出来事だったのです。

五十年の栄華も一睡の夢であり、粟ご飯が炊ける間の一炊の夢でした。盧生はそこでこの世はすべて夢のようにはかないものだという悟りを得ます。そしてこの邯鄲の枕こそ、自分の求めていた人生の師であったと感謝して、望みをかなえて帰途につくのでした。

能・演目事典:邯鄲:あらすじ・みどころ

この邯鄲で語られているメッセージ。
「夢は儚い。儚いものだと分かっているのに、人は夢を見てしまう。五十年の栄華も、目覚めてしまえばただの夢。げに何事も一炊の夢」
これがまず最初のシーンで映し出されます。

もちろん最初は「なんのこっちゃ?」っていう感じでしかないんですけど、実はこの冒頭のメッセージによって「この話はこうなりますよ」って書いちゃってるってことが物語が進むうちにジワジワわかってきます。横浜流星さんが、これから劇中で起こるみるものはしょせん、儚い夢、幻ですよってね。

大筋としてこの一つのメッセージがあることで、どん底からスタートした横浜流星さんの物語がどれだけ好転して、幸福感に満ちたものに進んでいっても、観る側としてはまったく安心できない不安感を持たせてくれています。

「被せる」という共通項で繋がる「面」と「ゴミ廃棄施設」

さらに能で使われる『面(おもて)』に関しても非常にユニークな意味合いを持たせているところにも感心しました。

私も最初は、「なんで誰もが嫌がるゴミ処理施設を抱えた暗い村に、能を組み合わせるのかなー」と不思議な気持ちで能の場面を観ていたんですが、物語が進むにつれて2つに共通した部分があることに気付いたんです。

それは互いに「被せる」という性質で共通しているということ。

能で使われる面には付けた人間の顔に被せることで、表情や心の内まで隠してしまう仮面としての性質がありますよね。

一方のゴミ処理施設にも、次から次へと上から新たなゴミを捨てていったり、汚染物質の流出の事実をひたすら隠ぺいしようとするなど、劇中では「臭い物に蓋をする」場所として扱われます。

『能の面』という、本来であれば厳かで清らかな存在として感じられるものが、ゴミ処理施設と一緒に描くことで、このゴミ処理施設そのものが村の人々の陰湿な部分をまるっと覆い隠そうとしている象徴だよ、っていうメタファーになっているのでは?と感じました。

その証拠に、ゴミ処理施設の中にぽっかり空いた不思議な穴から、何やら「シュー、シュー」という呼吸のような音がするのを、横浜流星さんだけが聞き取ります。実はこれ、後のシーンで横浜流星さんが面をかぶった際に出てくる呼吸音と同じなんですね。

村の人々の醜さを面が蓋をしているんだよ、っていうメッセージに関しては、祭りのシーンで村人がこぞって面をかぶってもくもくと行列をなして歩くシーンの異様さでも表現されている気がします。

村を出て東京で就職したもののうまくいかず、失敗して地元に戻ってきたヒロインを演じる黒木華さんのセリフ。

子どもの頃、この風景が怖かった。
全員が同じ表情で、同じところに向かうの
何の疑問も抱かずに。
不自然でこの世の世界じゃないみたい…

このセリフによって、「陰湿な部分を覆い隠して、異様な日々を送っているのは、都会も同じですよね」というメッセージを伝えているのでは?

また後半部分の、次々と降りかかる自分ではもはやどうすることもできない難局に耐えかねて、思わず自室で横浜流星さんが黒木華さんから貰った面を付けるシーン。

横浜流星さんにとって面は「自らの心を映す鏡」ですから、自分自身の心を落ち着けるために使っているつもりなんでしょうが、その心はもはや、自らの夢が覚めないよう、不祥事をもみ消そうとする一心に染まってしまっていますから、とても清らかなものとは言えません。

これが横浜流星さんの醜さに対する「蓋」としても扱われていることに、「うまいな~」と感心しきりでした。

横浜流星の目に映る火が物語のキー

一番、感動したのが「火を見つめること」でそれまでの登場人物たちの心情や、物語の幕引きと『邯鄲』のストーリーを繋げていたことでした。

まず物語の最初に、幼少期の横浜流星さんが初めて能の『邯鄲』に心を奪われたシーンを、うっとりと薪能で焚かれた火を見つめる描写で表現しているんですが、
横浜流星さんのお父さんが絶望の死に際に見つめるのもまた火なんですよね。

お父さんはゴミ処理施設誘致に対する抗議の果てに村の中で殺人を犯してしまい、自暴自棄になった末、自宅に火を放ち自死してしまいます。

それを踏まえてのラストシーン。

横浜流星さんは父親を死に追いやったゴミ処理施設を誘致した村長を、自らの手で殺め、家に火を放ちます。

村長の自宅に放った火を、横浜流星さんが幼少期と同じような表情で見つめることで『邯鄲の中にいるような心地の良い夢を自ら終わらせてしまったこと』を表現するという、まさに大括弧を閉じたような美しさ。

この時の横浜さんの表情が、悲しいのに、お父さんがまだいた頃の幸せだった少年時代のあどけなさなんかも入り混じった、良い表情をされるんですよ~。女子だったら抱きしめずにはいられないはず(笑)

この人、負の演技させたらものすごいんですね。ビックリしました。
痛めつければ痛めつけるほど、いい味の出る役者さんです(笑)

俄然、能に興味がわいてきた

私、初めて能の個別演目について知ったんですが、普通にファンタジーチックな要素とか、普遍的なメッセージ性とかが込められてるんですね。まずそこに驚き。

言うてしまえば、鎌倉時代の人が観てたネットフリックスを今でも観られるようなもの。
この文化的な帯というか、鎖といいますか、繋がりにゾクッとしますし、日本のエンタメ文化ってやっぱすごいんだなぁと改めて見直す気持ちになりました。

しかも調べてみたら意外と手が出ないこともない料金で、鑑賞することができるんですね。知らなかった…。さすがに村のお祭りで薪能を味わうなんていう機会はレアだと思いますが、都内近郊に住んでいる方なら、ちょっとお出かけすれば観ることができますね。

文化的に豊かな人って、財布の厚み関係なしにホントにカッコいい。
ちょっといろいろ演目の方を漁ってみて、面白そうなものを観に行ってみようかなぁ。

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