映画『茶飲友達』〜私は他人の孤独を否定できない〜
映画『茶飲友達』
数年ぶりのユーロスペース、久しぶりの映画館。
待ち焦がれた外山文治監督最新作。
これまでにも、エンタメであまり主役になることがない
"高齢者のリアルな生き様"
にひたすらスポットを当ててきた監督の意欲作だ。
連日満席の大盛況、続々と上映館も増え続けているらしい。
↓外山文治監督の前作『ソワレ』のレビュー
『茶飲友達』は実際の事件をモデルに作られたオリジナル脚本で、テーマは高齢者の売春クラブだ。
一瞬ギョッとするが、表面的な情報だけでは到底理解できない人間の業が詰め込まれている。
家族とは、命とは、幸せとは…決して正解などない、あまりにも深刻な問題へと観客を引きずり込んでいく。
老人同士のベッドシーンをこんなにまじまじと見る日が来るとは。なんというか若者のそれよりも、見てはいけないもののような気がした。
でも画面の中で恍惚の表情を浮かべる彼らは、当たり前に男と女で、その前にただただ人間で、でも拭いようのない、深い寂しさを瞳に浮かべていていたたまれなくなる。
恍惚というよりは、今この瞬間だけ生きることを許された安心感のような、胸を締めつける顔が焼きついて離れない。
それが正しいことだなんて、はなから誰も思っていない。
「でも正しいことだけが幸せじゃないでしょ」と売春クラブを経営する主人公、マナは訴える。
理屈や道徳ではなく、他人の肌の温もりでしか埋められない孤独がある。
(なにもそれは性的な意味だけではなく、手が触れ合うだけでも、大きな意味がある)
それがたとえ刹那的な、他人から見たら蔑まれる行為だとしても、誰からも求められず独りで死ぬよりはよっぽどマシだと本気で思って生きている人は、確かにいる。
そんなあまりに切実な思いを、いったい誰が頭ごなしに否定できるというのだろう。
欠けたものを埋めるためにもがき、弱者に手を差し伸べ続けるマナは、私には本当に心優しく魅力的な女性に見えた。
いつでも笑顔で寄り添う彼女の姿は、それが元を辿れば自分のためだとしても、打算的には見えず、本気で家族を作ろうとしているように見えた。
確かに家族に見えたし、皆幸せそうに笑っていた。
それなのに、ある事件をきっかけに彼女が助けた人々が一斉に離れていく。
あまりにも生々しく残酷な幕引きだった。
「あなたの寂しさを、他人の孤独で埋めようとしないで」
絶望する彼女を見ていて、本当にそうだろうか、彼女は100%間違っていたのだろうか、
少しでも誰かの心を救ったのではないかとすがるような思いになった。
答えなどない。
マナが母親のように慕っていたマツコさんの暗くて冷たい目。実は腹の底で何を考えていたのだろう。
唯一面会に来た母親はマナにあんな言葉を浴びせておいて、いったいどの面を下げて「家族でしょ」と言ったのだろう。
マナは自分を受け入れてほしかったから、他人を支え続けた。でも結局誰も、彼女のために立ち止まってはくれなかった。心から話を聞いてくれなかった。
それがあまりにも悲しかった。
彼らはあの後どうしたのだろう。キラキラと目を輝かせていた高齢者達は、居場所を失ってどうやって生きていったのだろう。
どうしたってその先には、はじめからそこにあった孤独な死が、変わらずぽっかりと暗い口を開けて待っているようにしか思えなかった。
人は皆、自分の人生しか生きたことがない。
想像を絶する、知らない人生が数えきれないほどあるのだ。
そのことを思うたびにとてつもなく怖くなる。
でもだからこそ、こういう映画を観ることで少しでも知りたいと思う。
「そんなのありえない」と軽々しく他人の人生を否定するような人間にならないように、
自分の正解を他人に押しつける権利など誰にもないと思い出すために、
この映画は極めて貴重な存在だ。
主人公を演じる岡本玲さん、久しぶりに見たけれどこんなに素敵な女優さんになっていたとは!絞り出す声の重みがとても良かった。
今泉組の映画で圧倒的な存在感を見せ続けている海沼未羽さんも素晴らしかった。
高齢の役者さん達は、円や座など劇団出身の方ばかり。生きてきた時間の長さが語る、なんという芝居の深み。
役者の繊細な揺れを余すことなく伝える手持ちカメラの肌触り、
希望と絶望をたたえる陽の光、
音楽が芝居に先行しないため、という狙いから入るのは最小限でありながら、逆にそれがものすごく効果的で、頭をガツンと殴られるような温かいチェロの音色(作曲は朝岡さやかさん‼︎)
どれをとってもため息が出るほど美しかった。
何度も何度も、気づいたらふと涙が流れていた。
ここから全国の映画館へ広がっていきます。
自分に関係ないから、
なんとなくタブーだから、
で目を背けるのはあまりにももったいないです。
ぜひ先入観にとらわれることなく、体感していただきたいです。
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