37歳独り身田舎暮らしフリーランスおじさんの考える人との距離で気をつけていること

この記事にたどり着いてくださった方、ありがとうございます。

大した経験をしてきたわけではない僕ですが、半端者なりに今の行動の中心にある考え方を書き留めておこうかとPCを開きました。少し時間が経って、自分を振り返る機会になればと思います。また、どなたかの参考になれば幸いです。

その前に何をしてる人なの?って話です。

昨年、会社を辞め田舎の熊本に帰ってきてフリーランスで働いています。動画編集をさせていただいたり、ECサイトのコンサルをしたりな日々です。

一人で再出発を切ってからは、最近ようやくSNSだったりビジネスツールだったりで、やりとりをする方が20人ほどできてきたくらいの人間関係です。

それでも、顔も名前も知らないつながりが増えたこともあり。相手に失礼のないように、それでも楽しく過ごしたいって思いで毎日を生きています。

前置きが長いですね。

ここからは2つのよくある話と、最後に僕の考えを書きます。20代での人間関係の失敗と、30代前半でいろいろ見聞きした中でつくられた今の僕の考えです。

※目次を見て「あーね」となった方は、そっと閉じて他の大事なことに時間をおつかいくださいね。ぜひまたどこかでお会いできる日を…!

2:6:2の法則

働きアリの話で聞くことが多い「2:6:2の法則」ですが、今回触れるのは人間関係に当てはめて話されるものです。

例えば10人の人がいたら、1人のある意見を1人は賛成し、2人は反対します。残りの6人は「どちらでもよい」と考えるという話です。心理学かな?経済学かな?

僕の思い出話を。

前職では物販をしていました。小さな企業で、黎明期に店長として切り盛りしていたメンバーが本部に集まって仕入や卸を担っている職場でした。僕もそのひとり。

意識や目標を同じくして集まったメンバー6人がマネージャー職になる頃、ある1人(Aさんにしますね)と僕の間にどの分野の話でも摩擦が起きるようになります。
(仕入、販売、ものづくり、管理あらゆる場面で)

退職するまでずっと続きました。原因は僕の人格的な部分もありそうですが…(結構仕打ちがひどく、コロナ禍のリモートワーク時期に拍車がかかったため本当に精神的にまいったって話は別の機会に)

衝突する2人(僕とAさん)、それを静観する4人。

ある日、飲みの席で4人の内の1人(Bさんにします)と、この件が話題になり「もう少し考え方を改めたら」と指摘を受けることがありました。その日は自分の非も受け止め、変わろうと試みました。

とはいえ、現状はさほど変わらず。

このやりとりが何年も繰り返されるようになったある日、僕からBさんに「なぜ僕だけに言ってきて、相手側には何も言わない?」と尋ねたところ驚きの回答。

「どちらも間違ってないからです」

こういう衝突があったとき、僕の考えの基本は「喧嘩両成敗」というか、どちらにも偏ることなく事実と意見を聞いて、組織や今やっていることの目標にそった答えを出していくことにあります。

その同僚から出た言葉が「どちらも間違ってないからです」だったことにポカーンとしてしまい、Bさんは心理的に距離の近い僕だから直せる部分を教えてくれていたのだなと納得した瞬間でした。

残る4人が静観している理由が「どちらも間違っていない」にあったことに驚くと同時に、自分の中にあった「問題を誰かに解決してほしい」と知らず知らずに求めてしまってたことにも気付けました。ちと、自分にがっかり。

合わない人もいるけど、その人にも立場や背景があることを意識しようと思えた出来事でした。つぎ、いきます。

マリアとマルタの話

これは「人の選択を奪っちゃいけない」ってことだったと思います。キリスト教の考え?のようです。リンクは2つ貼らせていただきますね。
ちなみに宗教的な思想は僕にはありません。どれかではなく、どれでもないです。考え方がなるほどと思ったって話を書きますね。
(リンクの下で一度マリアとマルタの話をまとめます。)

要点だけかくと、、(違ったらすみません…!)
1. イエスが訪れたある村に姉妹がいました。姉のマルタと妹のマリア。
2. イエスをもてなすために一生懸命給仕する姉のマルタ。イエスの話をただただ聞く妹のマリア。
3. 何もせずイエスの話を聞くだけの妹をみた姉は「どうして手伝ってくれないの」と怒り、イエスに妹を叱ってくれと話す。
4. イエスが姉のマルタに返した言葉が、

「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」(中略)「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
マルタとマリアの話 - 国分寺教会

こういう流れでした。
もてなすことを選択した姉も、ただただ話を聞く妹も。どちらも選択したことだし、奪っていいものでもないって話だったかと受け取っています。

ちなみに、この話は「マチネの終わりに」を映画で見たときに初めて知って。

映画内で「それでもイエスの言ったマリアの選択を奪っちゃダメっていうのは納得できない」って登場人物が話をしていたところだったかな?
それを聞いて僕は、この考え方が一般的だよな〜と考えた憶えがあります。

子どもの頃から「誰かのために動いた子が正しい!」と思い込むような成長過程を歩んできた僕にとって、かなり驚きがあったことを覚えています。

相手の選択を奪わない。大事なことですね。
※「何かを選べる有り難さ」も別の議論であるかと思いますが、それはまた置いておいて、です。

ここまで、よくある話をつらつらと書きましたが、僕がいま大事にしていることのきっかけになる話でした。
上記を前提に、他に心がけていることを書いて終わりますね。

自分なりに、いま心がけていること

ここからは、上記以外に僕が大事にしていることを書きますね。

面白いと思ったら声をかける、手を挙げる、発信する。

これは副業禁止の会社を抜けて、フリーランスって立場になったからこそやるように心がけていることです。
「そんなこと営業の基本じゃん」なーんて言わないでくださいね。

これはもう、文字通りです。案件があれば、SNSで面白い投稿があれば、記事やマンガを読んだら、映画やアニメやドラマを観たら。何でもいいと思うのですが自分が楽しいと感じることは発信する、提案する。自分の言葉で。

同じ考えや、僕の行動に共感してくださる方と日々を過ごせたらと思います。

くる者をよく見る、去る者を追わない。

上手い格言つくろうとして、しくってる感ありますが……

「来る者拒まず、去る者追わず。」って言葉がありますよね。ちょっと違って。というか本来の趣旨と違うかもしれません。

そしていきなりですが…僕は結構、傷つきやすいです。

おいおいどうした?と思うかもですが、いわゆる「HSP」という言葉が出てきて精神的に救われた一人でもあります。と書けば何となく伝わるでしょうか。

相手に好意があっても、使う言葉やふるまいによっては簡単に気力をもっていかれます。すぐにKOです。もうぐったり。

んじゃ付き合わなけりゃいいじゃんと思われるかも知れませんが、その関係を絶つのが下手くそです。もうものすごく。

だから、くる者をよーくよーく、見ます。

去る者を追わないのも、相手の時間を奪わないためだったり、自分との時間だけがその人の今できる選択肢の全てではないと考えるからです。
誰かがどこかに行くことを、とやかく言わないです。それも相手の選択だからです。

……と。

思想の癖が強くなってきたので、ここまでにしようと思います。

ダダダーっと書いてきましたが、僕はボーッと生きていますし、楽しいことが好きで、臆病者です。
普段はフワフワとした言葉で生きていますが、興味がある方がいらっしゃったらTwitterででもやり取りしましょうね♪

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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