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どの扉から入ろうかな_doors

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映画、演劇、ダンス、音楽、マンガ……。 無指向性マイクのようにカルチャーを駆け巡りたい。そうすれば、これまで見えなかった世界が現れてくるはず。
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2023年6月の記事一覧

【映画評】 杉田協士『河の恋人』

幼い女の子が目を覚ますと隣の枕には誰もいない。その枕の主はいったい誰なのか。 女の子はパジャマ姿のままアパートの外に飛び出し、誰かを追いかける。 杉田協士『河の恋人』(2006)は、このような不在の呈示で始まる。それから年月が流れたのか、アパートの二階から女子高校生(中学生かもしれない)が荷物を持って現れる。引っ越しをするようなのだが、この女子高生の名は桐子(表桐子)。桐子は冒頭の幼い女の子と同一人物であることがやがて判明する。今日は桐子の演劇部・転校記念公演の日。桐子は学

【映画評】 アピチャッポン・ウィーラセタクン『メモリア』映像、あるいは音のインスタレーション

アピチャッポン・ウィーラセタクン『メモリア』(2021)を見たのは1年前、那覇市の桜坂劇場だった。映画を観たあと「備忘録」として書き散らし、そのまま眠らせていた。 今回、「備忘録」の断片を拾い集め、不完全だが、とりあえずの映画評としてまとめてみた。 映画冒頭、薄暗い部屋にカーテン。カーテンにうかぶ薄明らしき柔らかな光。突然、衝撃音がし、カーテンを背景に起き上がる女のシルエットが映し出される。それは植物のある室内の、夢遊病者のように佇むジェシカ(ティルダ・スウィントン)だ。ジ

【映画評】 セルゲイ・ロズニツァ『粛清裁判』『国葬』『新生ロシア1991』

1964年ベラルーシ生まれ、ウクライナで育ったセルゲイ・ロズニツァ監督による『粛清裁判』(2018)。 本作は、スターリンによって行われた「産業党裁判」(1930.11.25〜1930.12.7)の記録映画を基に製作したドキュメンタリー映画である。 「産業党裁判」とは、1930年のモスクワで、ソビエトの著名な工学者たちのグループが西側諸国と結託し、ソビエトの工業と運輸を破壊しようと企てた容疑で行われた裁判である。一部の被告は大粛清の犠牲となったのだが、今日ではスターリン体制

【映画評】 熊切和嘉監督作品。眼差しの先にあるもの、性/死。

(写真:ソフィアート) 映画について語ろうとするとき、監督の背景、たとえば幼年期の記憶や出身地の地勢といった人間形成に欠かせない、いわば監督のゆるぎない固有値を作品に織り込むことがある。このことで作品世界の核心に迫ろうと試みる。だが、このことが作品を幸福にするとはかぎらない。逆に、それらから解放、もしくは切り離すことで、つまり映されたもののみを思考する禁欲性が、作品世界を豊かにし、創造的になることもある。それは監督の固有値の織り込み方にもよるのだろが、わたしがこれから論じよ

【映画評】 山戸結希『おとぎ話みたい』 フレーム内に物語を召喚することばとことばをフレーム外に放出させる身体

(写真:山戸結希『おとぎ話みたい』予告編より) ことばがフレーム内に物語を召還し、それが主演・趣里(女子高生・しほ役)の身体の一回性(=ダンス)に引き受けられることで再びことばを放出する。いや、引き受けるというのは間違いだ。ことばと身体の一回性に引き “受ける/受けない” という関係性は本来的にはない。関係性には、ことばと身体とのある種の回路を必要とする。引き “受ける/受けない”ではなく、趣里の身体の一瞬のかがやきが膨大なことばを生み出し、身体とことばが軋みという回路(=

【映画評】 鈴木卓爾『私は猫ストーカー』

「猫派? 犬派?」と聞かれたら、わたしは即座に「猫派!」と答える。 懐いてきたときの猫も可愛いけれど、不意にそっぽを向かれたときの切なさがツンデレのようでなんともいえず良い。心を寄せる女性から、「ふんっ」とされたときの気持ちと似ていて、たまらなく心を刺激する。 猫を飼いたい気はするけれど、うちのマンションは動物飼育禁止。それに、動物を飼うと長期の旅行はできないし、健康保険のない動物は病気に罹ったとき、経済的にきついものがある。それから、子どもの頃の飼っていた犬が死んだときの