日曜映画批評_衣川正和

映画、ダンス、演劇、ときには音楽。それらを糸として織り込まれた布。そこにはまだ見ぬ世界…

日曜映画批評_衣川正和

映画、ダンス、演劇、ときには音楽。それらを糸として織り込まれた布。そこにはまだ見ぬ世界としての襞があるはず。その作業としての考えること、書くこと、 主に映画について書きます。 眠ってたって起きてるよ。稀にライターやってます。

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  • 映画の扉_cinema

    どんなに移動手段が発達しても世界のすべては見れないから、わたしは映画で世界を知る。

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    映画、演劇、ダンス、音楽、マンガ……。 無指向性マイクのようにカルチャーを駆け巡りたい。そうすれば、これまで見えなかった世界が現れてくるはず。

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    映画の路地を歩いていると、思わぬ所で写真に遭遇することがあります。 それは、ミシンと蝙蝠傘の不意の出逢いのように美しいのです。

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    文学について書くとは文字テクストによる文学テキストへの返礼。 なんて無謀な行為なんだ。

  • パフォーマンス・音楽・アートの扉_culture

    身体という物質性、知覚の直接性に興味があります。 目と耳、そして皮膚感覚。 それら刺激に満ちた世界。

最近の記事

【映画評】 MADE IN YAMATO 宮崎大祐『エリちゃんとクミちゃんの長く平凡な一日』…時間についてのいくつかの覚書

並奏する二のカノン。揺れ動き交錯する音響に浸る愉楽の体験。 タイムカプセルという未来、恐竜という過去、そして「今」という現在。 「今」は更新を前提とする持続する時間であることで、たちまち過去へと追いやられる曖昧さを持つ存在でもある。いまそこに在る(在った)という変貌する時間の曖昧さ。「今」を写真に撮れば、「それは=かつて=あった」というロラン・バルトに帰結する。 右目で見る世界、左目で見る世界。それはコーピー元のないコーピーであり、見ることの根源に、オリジナルの喪失が既

    • 【映画評】 草野なつか『王国(あるいはその家について)』 〈声〉と〈身体〉に関するメモ

      草野なつか『王国(あるいはその家について)』(英題)Domains(2018) 本作をはじめて見たのは2019年、神戸の元町映画館だった。その時は言語化(テキスト化)し、noteに発表した。 さらにより深く理解しようと、2019年10月の山形国際ドキュメンタリー映画祭で鑑賞。再び言語化を試みようとしたのだが、言葉は霧散し、わたしは成す術を失った。 今回(2024.2.26)、三度目の鑑賞となる出町座ではどうだろうか……。 たとえば、役者の身体も「家」であり、役者それぞれの

      • 【映画評】 カルロス・ベルトム『マジカル・ガール』

        数週間前からカルロス・ベルトム『マジカル・ガール』がX(旧Twitter)上で話題にあがることが多くなった。『マジカル・ガール』は2014年製作だから、リバイバル上映されるのかと思ったらそうではなかった。監督カルロス・ベルトムの新作が今春、上映されるのだ。タイトルは『マンティコア 怪物(原題)Manticore』。 主人公は空想のモンスターを生み出すことが得意なゲームデザイナーのフリアン。彼は内気で繊細な性格なのだが、隣人の少年を火事から救ったことをきっかけに、思いもよらぬ

        • 【映画評】 きょうとシネマクラブ「女性と映画」特集 アイダ・ルピノ『青春がいっぱい』

          きょうとシネマクラブ「女性と映画」特集・第2回上映作品 アイダ・ルピノ『青春がいっぱい』(1966) モノクロ映像によるホテルの小さな部屋。白い壁と白いベットシーツ、そしてベッドにはひとりの金髪の女がおり、窓ガラスから入り込む街灯の光が部屋という閉空間を怪しく映し出している。窓ガラスに打ちつけ流れ落ちる雨粒を部屋に入り込む光が壁面に映し出し、女の顔にも光としての雨粒が流れる。フィルム・ノワールとして部屋を変容させる雨粒であり、このときの女の表情はまさしくフィルム・ノワールだ

        【映画評】 MADE IN YAMATO 宮崎大祐『エリちゃんとクミちゃんの長く平凡な一日』…時間についてのいくつかの覚書

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          【映画評】 宮崎駿『魔女の宅急便』 上昇と下降、現実を浸食する力

          「文学作品に「驚き」を期待するほど、批評家として怠惰な姿勢もあるまい。」 と述べたのは、早稲田文学新人賞受賞作、黒田夏子『abさんご』についての蓮實重彦の選評においてである。 「驚き」を期待するのは、なにも文学作品には限らないだろう。映画やアニメにおいても、やはり「驚き」を期待するのである。ところが、「驚き」はそうたやすく訪れてはくれない。だが、作品そのものから「驚き」が舞い降りるということはないにしても、見る者の視線に、「驚き」が内包されていることは経験的に知っている。

          【映画評】 宮崎駿『魔女の宅急便』 上昇と下降、現実を浸食する力

          【音楽評】 渋谷慶一郎+岡田利規『THE END』(初音ミク・オペラ)

          渋谷慶一郎+岡田利規の初音ミク・オペラ『THE END』 日本では2012年12月、山口情報芸術センター(YCAM)で初演、そして2013年5月、渋谷オーチャードホールで上演。わたしはYCAM初演時点では『THE END』の存在を知らず見る機会を逃してしまたったのだが、渋谷での上演は見逃してはなるまいと、オーチャードホールのオンラインチケットの会員になった。ところが新幹線往復交通費と宿泊費、それにチケット代を考えると、3万円は超えそうである。一週間絶食してでも行きたいとも考

          【音楽評】 渋谷慶一郎+岡田利規『THE END』(初音ミク・オペラ)

          【映画評】 リチャード・リンクレイター監督『スラッカー』 スイッチングという戦略

          人は絶えず何かにスイッチ「オン/オフ」し、それが意図的であろうとなかろうと、「オン/オフ」した対象により、その後の人生が決定される。人の運命とは、たかだかそんなものに違いない。リチャード・リンクレイターは運命論者であると言いたいのではない。彼が監督したインディペンデント映画の先駆的作品である『スラッカー』(1990)は、スイッチングの映画であると言いたいのだ。このことは、映画冒頭の若者を捉える一連のショットが雄弁に語っている。 若者はバスの中で目覚め、タクシーに乗りかえる。

          【映画評】 リチャード・リンクレイター監督『スラッカー』 スイッチングという戦略

          【フランス旅行】 『ソーグのひと夏』に思いを馳せるフランス・ドライブ紀行

          「#わたしの旅行記」の企画に参加させていただきます。 市の図書館で、とある小説に手が伸びた。タイトルに、なんとなく感情が動いたのだ。 借りて読むと、そこから連想されるフランスの旅を思い浮かべた。 とある小説とは、 ロベール・サバティエ『ソーグのひと夏』(福音館文庫) である。 『ソーグのひと夏』を借りたのはほかでもない、「ソーグ」という音の響きにどこか懐かしさを感じたからである。 なにゆえそう感じたのか。 本を手にしたときには分からなかったのだが、本の末に載っている地

          【フランス旅行】 『ソーグのひと夏』に思いを馳せるフランス・ドライブ紀行

          【海外旅行】 はじめての海外旅行、それは《世界一周便》だった

          いつもは映画のことを書いていますが、今回は海外旅行について。 わたしがはじめて海外に行ったのは遥か昔(?)のこと。 どのくらい昔かといえば、後述する、いまはなきアメリカの航空会社名から推定すればお分かりいただける……と思う。 10代の頃から海外への想いは強く、その中でも、文芸や映画の世界で触れるヨーロッパ、とりわけパリへの憧れは相当のものだった。パリの地に立ち、自分の眼で確かめてみたい。そんな思いで、ヨーロッパ旅行を遂行しようと思ったのだ。しかも、初めての航空機利用。国内

          【海外旅行】 はじめての海外旅行、それは《世界一周便》だった

          【映画評】 マチュー・アマルリック『彼女のいない部屋』 時間の創生へ向かうポラ写真

          マチュー・アマルリック『彼女のいない部屋』(2021) 映画冒頭、クレジットの背景に木々の葉の隙間から漏れる黎明の鈍い光。それは走る車から上方に向けられた視線が捉える光、もしくは薄明の怪しげで幻惑的、夢想への誘いのような光でもある。車をひとり運転するクラリスの視線を暗示しているのだろう。続くショットは、ポラで撮られた家族写真をベッドに並べるクラリス。彼女はポラ写真を眺めながら、recommence(やり直す)と怒ったように幾度も言う。J’invente(想像する《*》)も聞

          【映画評】 マチュー・アマルリック『彼女のいない部屋』 時間の創生へ向かうポラ写真

          【映画・音楽評】 リュック・フェラーリ……ほとんど何もない Presque rien

          リュック・フェラーリLuc Ferrari(1929〜2005) フランスの作曲家、映像作家。特に電子音楽で知られる。 映像作家としてのフェラーリ作品が上映される機会は、日本ではほとんどない。研究機関や特別な上映会においてのみである。 リュック・フェラーリ『ほとんど何もない、あるいは生きる欲望』 Presque rien ou le désir de vivre ドイツ(1972・73) 第一部 コース・メジャン Le Causse Méjean 第二部 ラルザック高原

          【映画・音楽評】 リュック・フェラーリ……ほとんど何もない Presque rien

          【映画評】 宮崎大祐『#ミトヤマネ』…「ミト」論・本章(1)

          本稿は 《宮崎大祐『#ミトヤマネ』…「ミト」論・序章…遠近法による一元化》 の続編です。 本章(1) 序章では天皇表象における遠近法による意味の一元化について述べた。ただ、序章で述べたのは日本の新聞写真上の「天皇夫妻の写真」における〈遠近法〉による意味の一元化ということであり、わたしはイメージにおける〈遠近法〉の危険性を指摘したまでである。そこでの〈遠近法〉の要旨は、たとえば射影幾何学の、視覚の円錐の頂点から世界へと射影する主体への付与であり、集団無意識(=国民)の奥底で

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          【映画評】 ギョーム・ブラック『遭難者』 バカンスの最大の敵は遅延だ

          ギョーム・ブラック『遭難者』(2009)Le naufragé フランス北部の小さな港町オルト。 サイクリング中にパンクしたことで、「くそっ!」と草むらに自転車を投げ捨てるリュック(ジュリアン・リュカ)。 どこかゴダール的な諦念の罵声と行為も思えるのだが、こんなことで映画の始まりを見せるなんて、ギョーム・ブラックは尋常な監督ではないことが既に読み取れる。そしてよりによってか、どう控え目に見ても冴えないとしか思えない男シルヴァン(ヴァンサン・マケーニュ)が通り掛り、サイクリン

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          【映画評】 チャン・ゴンジェ『ひと夏のファンタジア』

          チャン・ゴンジェ『ひと夏のファンタジア』(2014) 作品解説に 「映画監督の夢の映画とは何か。トリュフォーの『アメリカの夜』など映画製作の舞台裏を描いた名作群に連なる、新たな傑作の誕生」 とあるが、トリュフォーと比較するまでもないほどに魅力的な作品である。 作品は2つの章からなる。 (第1章) 奈良県五條市にシナリオ・ハンティングにやってきた韓国の映画監督テフン(イム・ヒョングク)。 彼は日本語を話す助手ミジョン(キム・セビョク)とともに、古い喫茶店、廃校、ひとり暮ら

          【映画評】 チャン・ゴンジェ『ひと夏のファンタジア』

          【映画評】 河瀬直美映像個展(ドキュメンタリー作品集)覚書

          1本の映画を見て、その中から外部としての幾本かの映画を思い浮かべることがある。それは引用であったり、他者へのオマージュであったりするわけだけれど、そのような直接的な関連ではなく、表現の概念的な眼差しというか、カメラのこちら側の思考への共鳴というものを感じることがある。チャン・ゴンジェ『ひと夏のファンタジア』のクレジットを見て、ああそうなのか、と思った。チャン・コンジェが描く世界に、河瀬直美監督は共感したに違いないと思ったのだ。 河瀬監督の初期作品には、フィクションとドキュメン

          【映画評】 河瀬直美映像個展(ドキュメンタリー作品集)覚書

          【映画評】 宮崎大祐『#ミトヤマネ』…「ミト」論・序章「遠近法による一元化」

          序章…遠近法による一元化 写真はなにも語らない。写真は撮影者の説明なしにはなんの光景であるかもわからない。撮影者が意図的に埋め込ませた、あるいは偶然映り込んでしまったコードによってある程度の素性を知ることはできるが、ロラン・バルトが指摘したように、原理的には〈それは=かつて=あった(ça-a-été)〉ことしか示さない。それ以外のことはなにも語らない。このことは、とりあえずは正しいように思える。 いまここに、2005年6月28日付夕刊の新聞紙面の1面を飾った写真がある。各

          【映画評】 宮崎大祐『#ミトヤマネ』…「ミト」論・序章「遠近法による一元化」