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【ライブ】 clammbon 20th Anniversary「tour triology」

×月×日
これから《clammbon 20th Anniversary「tour triology」》に大阪へ。

クラムボンは原田郁子の歌唱と詞に惚れてファンになったのだが、コンサートには一度も行ったことがない。今回がはじめてで少し興奮している。原田郁子の歌声にわたしはどうなるのか。

わたしはコミュ障ではないのだが、人混みは気にならないのに、知る人のいない集まりには行きたくない。たとえ行ったとしても、その中の会話に入るのが嫌だ。入る勇気がないわけではないけれど、見知らぬ人たちの中に入り、共通の話題を見出すのが億劫でならない。そして、興味のない会話に加わるのはストレス以外のなにものでもない。未知の話題に加わることで世界への視野を広げることもできるのかもしれないが、ストレスを感じてまで視野を広げたいとは思はない。

いや、それだけではない。たとえ共通項があったとしても、年齢差も気になる。異なる年齢層の集団があり、ひとりぽつねんといるわたし。わたしと同じ年齢層ばかりが蝟集するのも気持ち悪いけれど、異なる年齢層の集団にわたしひとり。クランボンのコンサートの場合、わたしよりずっと若い集団。大きな白いキャンバスに黒一点の汚点のような気がする。純白の平面に墨のような漆黒ならそこに美を見出すこともできるだろうけれど、キャンバスを汚してしまった黒点のような一点。クランボン、とりわけ原田郁子をディーヴァと崇め立てているわたしなのだが、巨大ホールでのライブとなると気が引ける。ライブに行きたいとずっと思い続けているのに、ためらいが先にたち、LPとCDで高鳴る気持ちをやり過ごしてきた。

わたしはライブが嫌いなわけではない。新宿のライブハウス「ピットイン」は毎週のように行っていたし、京都に引っ越してからは、浄土寺の「外」というオルナティブのライブハウスにも足を運んでいる。どちらも小さなライブハウスで、身体ごと音楽に没入しながらも観客の一体感とは程遠い、各自がひとりになれるハウスである。だが、巨大ホールでの観客の一体感…わたしには怪しげな宗教の洗脳に見える…は苦手なのだ。

《clammbon 20th Anniversary「tour triology」in Osaka》の前年、京都みなみ会館でオールナイト《clammbon 20th Anniversary ナイト》のがあった。これならば映画館の暗闇に身を隠せる。勇気を振り起こし出かけた。観客は若い人たちばかり……おそらく30歳前後……だったけれど、大音量と映像で視聴するクランボンは、わが家のオーディオ機器で聞くクランボンとあまりにも違っていた。音楽に空気感がある。空気感とは、会場に溢れる振動であり、音響が作りだす深さの遠近だ。終映後、わたしの意識は薄明のよう。この世から幾分外れたところにわたしはいた。
このオールナイトがわたしに火をつけた。もしかすると、ライブも大丈夫かもしれない。

それからしばらくすると、わたしのそんな意識もいくぶん薄らいだ。街を歩きながらipodから流れる曲に、クランボンの楽曲は少なくなった。

クランボンの新曲がLPでも発売されるという情報を知ったのは初春だったろうか。LPには《clammbon 20th Anniversary「tour triology」》の案内が入っていた。それを見て、わたしの心は振動した。何かが不意に舞い降りてきたような気がした。ためらうことはない、心の振動を行動に移すのだ。この機会を逃したら、わたしはクランボンのライブに行く機会は訪れることはないだろう。何ら根拠のない確信がわたしを突いた。たとえ「大きな白いキャンバスに黒一点」であってもかまわない。京都みなみ会館の闇にまぎれた時の気持ちでライブに行けばいい。

たかがライブチケット購入に、なんたることだとは思うけれど、テレビ映像でライブを観察(鑑賞ではない)した限り、ライブ会場の一種独特の一体感は、わたしとってあまりにも高いハードルである。見知らぬ人たちとの一体となった高揚感、それはファシズムに邁進する国民国家を思わせるほど不気味な様相に映るのだ……その意味では年齢層の違いは関係ないけれど。

ライブ会場である大阪のオリックス劇場に着くと、会場前には若い人たちがいた。わたしより三世代ほど若い人たち。しかも多くが友人たちと連れ立ってである。ああ、嫌だなー、わたしは一人。だが、京都に戻るわけにもいかない。

会場は満席。開演前のみんなは楽しそうに歓談している。わたしは所在なげに舞台を見つめている。早く始まってくれないだろうか。

クランボンがステージに登場すると、観客は立ち上がり、強烈な音響に合わせて体を揺り動かし始めた。これって、舞台と観客が一体となる瞬間なのだね。でも、「これがライブ特有の共振感なのだ!」と理解はするのだが、そんな状況を見ながら拒んでいるわたしがいる。みんなとわたしは個別に振動しているに過ぎず、共振というのではない。共振でないとは、チケット購入前からためらい続けている年齢差、そして苦手な一体感のこと。それが、ライブが始まっても払拭できない。わたしが勝手に決めつけている意味のない意識の不共振なのだ。そんなつまらないことを思いながらライブ会場にいる馬鹿なわたし。

この文を書いている今でもその感慨は拭えきれているとは言えないのだが、だからといってライブがつまらなかったわけではない。クランボンの楽曲に私の身体は次第にほぐれてほどけ、気づくと周囲がそれほど気にならなくなっていた。クランボンの音がわたしの身体の浸透圧を柔らかくしてくれたのだ。とりわけ原田郁子の歌声は、第一声から水のように浸透してきたし、伊藤大助のドラムスとミトのベースもわたしの身体に揺さぶりをかけ、地上の者でない感覚にわたしを誘った。今回が初めてのクランボンのライブであるわたし。原田郁子は、ずっと前からわたしの中でアイコンとなっている。ステージという遠いところにいる彼女だけれど、あの人は紛れもなく生・原田郁子なのだと思うと、わたしの気持ちはふわふわと会場を揺蕩うていた。そして、ライブに来て初めて気づいたことだが、クランボンとの共振運動(本当に身体が振動し揺れるのだ)は、欧米のロックで見られる垂直の運動とは違った、背中を幾分丸くした湿度の共振というものだった。

共振と書いたけれど、会場の異和を残した一体感といくぶんの心地よさ、観客としての、時代の危機感、違和感の “表/裏” の、地から5センチほど浮遊したような振動のことだ。

その日のtwitter
オリックス劇場にクランボンを聴きに行った。最初は多くのファンとの年齢ギャップにためらったけど、次第に気持ちがほぐれてきた。すると、音が自然に身体に入ってきた。ミトさんの笑顔が素敵だった。大助さんの叩くビートが心臓に響いた。郁子さんの歌う姿が美しかった。また聴きに行くよ。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

clammbonn「Lush Life!」Music Video


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