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【ダンス評】 モノクロームサーカス『TROPE』、『P_O_O_L』他

京都のダンスカンパニー、モノクロームサーカス(MonochromeCircus)。2013年の公演なのだが、『TROPE』を不意に思い出すことがある。それは、日常の道具の意味について。道具はそれ自体としてあるのではなく、わたしたち使用者との関係で予め意味が付与されており……たとえば椅子は腰掛けるための道具、ハンマーは打ちつけるための道具……わたしたちの存在なくして、道具に意味はない。それは道具に限ったことではないだろう。近代(そして現代)の人間中心主義の世界においては、人間との関係を通し、知覚され、世界は語られてきた。そして、人間中心主義が世界を閉塞させることも、日常レベルで経験している……わたしたちは3.11の原発惨事やCOVID-19で経験している……。
では、人間を、身体=モノとして理解してみたら、世界はどのように知覚されるのだろうか。そんなことを考えていたら、不意に公演『TROPE』を思い出した。京都での2回(2011年、2013年)にわたる『TROPE』公演、その延長線上に、2016年、東京公演『TROPE3.0』が公開された。

わたしは東京公演を見ていないのだが、『TROPE』の京都公演と、同作と同じ年に公開された『P_O_O_L』の私的メモを拾い集め、まとめてみた。

ただし、『P_O_O_L』『TROPE』とは別の位相の作品であり、道具と身体ではなく、単数の身体と複数の身体で世界を知覚する試みである。

モノクロームサーカス公演『TROPE』@VOICE GALLERY
演出・構成:坂本公成、服部滋樹、振付:坂本公成、モノクロームサーカス、舞台美術:graf、音楽:山中透
出演:森裕子、佐伯有香、野村香子、合田有紀、小林麻子、福井幸代、渡邊尚、grafスタッフ

目の前にハシゴのようなモノが壁に立てかけてある。

いま、「ような」という曖昧な用法とともに「モノ」と明示したけれど、もしかするとモノではなく、道具といったほうが良いのかもしれない。しかし道具だとすれば、あらかじめなにかを想定して作られなければならず、そのなにかがわたしには分からない。だから、とりあえずモノと明示するしかない。

ハシゴのようなモノは、縦軸として成人の背丈ほどの細長い2本の円柱と、円柱を固定するかのよう横に梁った短い5本の同型の横棒とで構成されている(冒頭の写真参照)。

ハシゴのようなモノをもう少し詳しく見ると、上部の2本の横棒の間隔は下部の3本の横棒よりも狭く(上下を反転させると逆になる)、なにものかが間隔の差異を要請したのか、それとも製作者の単なる悪戯にすぎないのか、はたまたハシゴようなモノに、なにゆえその違いが必要なのかはわたしには分からない。それゆえ、ハシゴのようなモノ、と名づけるしかないように思える。ところで、ハシゴのようなモノが縦ではなく、たとえば、横にして置かれてあるとするならば、わたしはそれを「ハシゴのような」ではなく、柵のようなモノ、と名づけるかもしれない。

そのモノの存在はわたしを脅かすことはないのだが、「のようなモノ」という据わりの悪い状況から逃れるため、わたしはそのモノになんらかの意味を読みとろうとする。しかし、目の前のモノはあらかじめ意味を有しているのだろうか、それとも、意味を付与しようとしているわたしが在るにすぎないのだろうか。2011年1月に初演された『TROPE』を思い出しながら、モノクロームサーカス公演『TROPE』再演に向かうわたしである。家具製作grafとの共同制作である。

モノクロームサーカスは身体と身体の対話。grafは家具製作やデザインワークなどを起点とした暮らしの提案をするクリエイティブユニット。つまり、モノクロームサーカス+graf とは、「身体と家具の問答」ということであるらしい。

家具と身体は近い関係にある。家具はあらかじめ身体のfunction(機能も含めた関係性)を想定している。腰掛ける、肘をつく、寝転ぶ、凭れる、寄りかかる、叩く、撫でる、足を掛ける、触れる、乗る、潜り込む、開ける、はじく、引き出す 、閉じる、壊す…… 。

あらかじめ設定されたfunctionにより、わたしたちと家具はコード化され、逸脱することはない。もしコードを逸脱したとするなら、それは家具ではなくなるだろう。

ならば、家具のfunctionを取り払って、家具と身体をコンタクトさせるとどうなるのだろうか。

functionを取り払うとは、道具としての用途から逃れ、さらに、「ようなモノ」という蓋然性からも離れ、わたしたちの身体と新しい関係を生じさせる。それを単に「モノ」と呼んでおこう。

そこにTROPEが発生する。

TROPEとは言葉のあや・修辞という意味なのだが、この場合、用途から離脱することで「モノ」は余白・隙間となり、TROPEは身体との関係で反復され、次第に新たな事態へとTROPEは変移する。

余白・隙間という、ある意味では意識的な空間=TROPEを纏った家具を前に身体は立ちすくみ、「モノ」との新しいfunctionを模索する。とりあえず身体をすべり込ませてみる。そのことで意識的な空間は流動的=TROPEとなり、身体と「モノ」との新しい可能性・行為が生まれる。

それは「モノ」からも身体からも過剰な意味を取り払う作業であると同時に、わたしたちは意味から逃れうるのかを試みることでもある。

「モノ」とダンスカンパニー、モノクロームサーカスのダンサーの身体をパフォーマンスの会場であるVOICE GALLERYというホワイトキューブに「配置」する。たとえば「モノ」と身体を雑に配置したり積み上げたりと。

「配置」という行為のもとで、ダンサーはブレッソンのいうモデルのようでもある。それは、映画における“演じる/在る”、ダンスにおける“踊る/在る”ということ意味において、“在る”身体ということだ。「モノ」も身体もただそこに在るということだ。

新しい可能性・行為とは、必ずしも新しい意味を見出すということではない。意味のその向うに、“在る”という意識を向けることである。それは「モノ」と意味との間のスキマに意識を向けるということであり、そこに“在る”という知覚を見出すことである。滑らかであったり、ザラザラとしていたり、拒むようであったり、眼で触れるであったりと……。それは果てしなく反復され、終わることのない行為となる。『TROPE』は終わりのない運動である。

モノクロームサーカス『TROPE』VOICE GALLERYの公演


モノクロームサーカス公演『P_O_O_L』@劇研

『Species』
振付・音楽・出演:野村香子、衣装:南野詩恵、タクデザイン:ノダナンミ

スポットライトがひとりの身体を緩やかに浮かび上がらせる。そこには左脇を下に横たわる野村香子が。右足はわずかに左足から遊離し、死の間際のような微妙な動きを見せる。だが、両目はくっきりと見開かれているから、瀕死の身体が再生へと向かっている、あるいは身体の萌芽と言ったほうがいいのかもしれない。その静かな動きを見ながら、わたしは、ハンス・ベルメールと四谷シモンの人形を思い浮かべてみた。彼らの人形の持つエロスを野村香子に感じたからである。ところで今日の彼女は、皮膚という表面を露にするハンス・ベルメールの身体ではなく、身体に纏わりつく湿度のエロス、つまり四谷シモンの人形なのだろうか。身体の直接性のエロスではなく、大気と交合するような浮遊するエロス。右足のわずかな動きは大気の揺らぎを静かに誘引し、それが彼女の身体の新たな動きを生じさせる。これはダンスの始まりなのだが、まるで、世界の始まり(野村香子にとっては「鳥みたいに飛んでみたい」ということだ)に遭遇したかのようにも思えた。

『∞/近くてよく見えない』
演出・振付・出演:坂本公成+森裕子、音楽:元dumb typeの山中透

抱擁する二人。抱擁しながら円形の内部で緩やかに転がり続ける二人(坂本公成+森裕子)の身体。それはクリムトを想起させもするのだが、恍惚を思わせる黄金で装飾された世界ではなく、黒で印された、光の届かない遮断された世界。愛し合っていた二人が、海の底で愛を確認し合っているのか。抱擁する二つの身体は、円の内部で、やがて波にたゆたうかのように、あるいは波に抗するかのようにそれぞれの動きを見せ始める。しかし、どのような波で抗われようと、決して触れ合うことをやめない。3・11以後、モノクロームサーカスが表現しようとしてきたのはこのことである。

だが、黒で印された円形は、不意に透明な光に変わる。立ち上がった二つの身体は、気づくと、触れ合うことも、互いを見つめ合うこともなく、円の周辺を並んで歩行するという無限運動。触れ合う身体は幻想にすぎなかったのか、それともわたしたちの知らない新しい世界に向かっているのか。これまでも、そしてこれからも、「よく見えない」という事態の提示のように思えた。

『One』
振付・演出:佐伯有香、音楽:山崎伸吾、音楽制作協力:関 雄介(uzupoti)、衣装協力:eka
出演:坂本公成、森裕子、野村香子、福井幸代、渡邉尚

世界が始まったとき、それを構成する物質は孤立していた。孤立する物質にはそれぞれの運動があり、ひとつの物質の運動が始まると他の物質は停滞し、続いて新たな運動も始まる。運動は消滅することもあったけれど、やがて別な運動を誘引したりもした。そして世界は複雑な様相を見せ始めるのだが、ある部分は稠密であり、ある部分は疎となる。そこにはいくつもの運動体があり、凝縮と拡散が絶え間なく反復される。その運動が身体へと落し込まれると、身体からダンスへの変換が発生する。それがモノクロームサーカスである。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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