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引き継げなかった父の技術 マカピーな日々#0668

マカピーです。

マカピー父が亡くなって3年経ちました。

マカピー父は農家の7人兄弟姉妹の3番目の男子だったので、戦後間もないころまだ経済復興が進んでいなかった群馬から東京に出てゆくようなことはなく、家督を継ぐ長男以外、次兄も彼も金隣村に婿養子に出て行く、そんな時代だったのでした。

もちろんマカピー父の姉妹も全員、近隣市の農家へ嫁に行きました。

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さて、マカピー父は義父になるマカピー祖父とどんな関係にあったのでしょうか?二人の間でのいさかいのようなものはマカピーの記憶にないのですがそもそも諍い(いさかい)を好まなかった父に対して、かなりの論客で好戦的な祖父とは最初からうまく棲み分けしていたのかもしれませんでした。

というのも、祖父が戦前から29歳で村議会に加わっていたと聞きます。さらに旧陸軍の将校(大尉)で3回の出征を経て、ビルマ戦線で終戦を迎え復員してからも、農協の組合長や村議会議長を歴任していたので外回りは祖父の役目。

戦後農地解放で耕作面積が失われたマカピーの実家の経済を支えたのは、専らマカピー父の農業技術でした。

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祖父は若い時からへそ曲がりで、旧制一中に行くものだとばかり周囲が思っていたのに農業学校へ行ってます。

しかし、農地構造改善事業などは中心となって進めていても、農業自身は好きではなかったようです。

当時我が家の経済を支えていたのは養蚕業でした。

父は常に先端技術を導入していました。一般の農家では幼齢期の蚕は集団で飼育するものでしたが規模が大きかった我が家では父が電熱線を利用した飼育装置を開発するなど、できたのは本来の器用さに加えて農閑期に出稼ぎで県内各地で有線電話の普及事業で電柱に登っていたから、そこからもいろいろと技術を身に着けていたようです。

実はその出稼ぎの理由はマカピーが生まれた年にマカピー祖父が村長選挙に出馬して見事にコケてしまうという番狂わせがあったからでした。

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昔の事ですから、毎日の選挙本部運営での煮炊きなど散財するのです。

とうとう選挙資金に現金や食料も底を尽き(今の選挙の様子とは大違いです)、我が家は農地を手放す一歩手前までの危機に陥ったのでした。

そこに援助をしてくれたのがマカピー父の実家でした。

とりあえず、食べて行くめどが立ったのですが借金まみれになったマカピー父と祖父は二人で出稼ぎに出ていたのでした。(交渉は祖父、技術は父)

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マカピー祖父(母方)ともう一人のマカピー祖父(父方)はそんなこともあったのでとても信頼関係が厚かったように覚えていますし。父方の親戚の仲もとても良かったと記憶しています。

さて、父の養蚕技術は最高潮に達し夏の養蚕飼育期を高密度にした結果、飼育サイクルが最高5回(春子、夏子、秋子、晩秋、晩晩秋)となり、晩晩秋では10月末の桑の葉が枯れる直前まで飼育したのでした。

マカピー父は、飼育方法の改善を繰り返し、給餌施設や回転マブシの導入、寒冷期の暖房施設の導入、運搬用ケーブルカーの導入など、力の限り改良に努めました。

その結果、一軒の農家での繭生産量が1,000㎏を超えマカピー家は表彰され記念品の卓袱台の裏に金泥で銘記され残っています。

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日本だけなく、アフリカやアメリカ大陸をのぞく世界中で養蚕がありました。ヨーロッパでも飼育していましたが病気の発生もあり戦前は明治政府の推奨もあり日本が生糸生産の最先端となります。

文字通り蚕とは「天から授かった虫」です。その繭から生産される繊維を利用した織物は古代から利用されていました。

絹織物の独特の光沢は光の加減でジワリジワリと変化しまるでシカの群れが走るように見えたことから漢字の「綺麗」という言葉が生まれたといわれています。


世界一の生糸生産を誇った日本の養蚕業は、現在高齢化する養蚕農家が消えて無くなり、もうすぐ絶えようとしています。

せっかく2014年に富岡製糸場などの産業遺跡群が世界遺産に登録されたのに操業できる生糸は日本で生産されていません。

では、今から養蚕業を復活させることは可能でしょうか?

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当時の繊維産業を支える素材を考えれば簡単にわかります。

天然の素材である絹、綿、麻、羊毛などの農業によって収穫される材料で繊維産業が成り立っていたのですが、現在ユニクロで売っている製品に天然素材がどれだけあるかを考えてみればいいのです。

日本の生糸が世界に輸出された頃の繁栄を支えたのは農家の努力だけではありませんでした。

育種とよばれる優良な蚕の系統育種技術があったのです。東京農工大学はその蚕の遺伝を研究する「蚕糸学科」があったほどですし、群馬県には蚕糸高校までありました。県の農業指導員も養蚕は別格だったのです。

つまり世の中が「お蚕様(おこさま)」で回っていた時代だったのでした。

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日本では「養蚕業」とは、終わった産業ということになるのですが、その一方でマカピーは、父から何か大切なものを引き継ぎ損なったのではないかなあって心残りが感じられるのでした。

父から教わるべき技術を引き継がないまま父はいなくなってしまいました。

もっと早く気づけばよかったと思ったときは既に遅かったんです。

チャンスはすぐにキャッチしておかなければ、もったいないことになってしまうのでした!

マカピーでした。

最後までお読みいただき感謝します。その時代の普通って今の非常識


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