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読書録を書く決断をするに際して

はじめに

他人に物を貸すことはあるだろうか。かつてはTSUTAYAをはじめとしたレンタルショップも隆盛をはかり、個人間でCDやDVD、ゲームを貸し借りすることは日常的であった。
サブスクリプション・サービスの発展に伴い、物を貸し借りすることは減っていきつつあるということに諾と言えない人はそれほど多くないだろう。それは実感として多くの人に共有されていることであると言える。その中で共有されている事柄に恣意的に補助線を引いてよければ、こう換言することは可能であろうか。すなわち、私的所有の領域がよりはっきりとした、と。

物の貸し借りには返ってこないという現象がつきものである。拙文を読んでいるあなたにもその体験があるだろう。限られたおこづかいの中で買った週刊漫画雑誌、お気に入りのCD、熱中したゲーム。それらを通じて感じた言いようのないあの感覚を、所有物を貸し借りすることにより共有したいという願い。文化への接触に対して高いハードルが課されていたあの時代だからこそ持ち得た、希望的観測としか言えないあの試み。その試みの中に、「返ってこない」という結末が否定できない形で残されているからこそ、あの試みは印象的な形で私たちの心の中に残っているのであろうか。

佐々木中『夜戦と永遠』の勉強会に参加した際、先輩方が作ったレジュメが、ジャック・ラカンの「充実した言葉」についての解説で例文として引用として用いたものを想起してしまう。曰く、われわれは、言葉を使い象徴界の領域に参入している限りにおいて、「言葉の真理」=「契約の真理」しか受け取ることができないと運命づけられている。それゆえ、言葉=「パロール」と「ランガージュ」のシステムが、不在を、契約の不履行を織り込む形でしか「ある」を、「契約」を形作れない限りにおいて、言葉を介したコミュニケーションというものは常にその背後に破綻が存在していると。それゆえ、私たちは恋人に対し、執拗なまでにお互いの愛を確認しようとし、何度も何度もお互いの感情が確かな物であると確認せずにはいられないのである、というものである。

破綻が織り込まれていることが前提とされた物の貸し借り、こう言ってよければ、物の貸し借りを通じた言語的コミュニケーションというものが、地滑り的に他者との「わかりあい」「わかりあえなさ」と言いようもなく繋がっていたあの時代はもう過去になってしまったのか?あるいは、それが過去のものになってしまったことにより失われてしまったものは何であるのか?こうした問いを立てることは無駄ではあるまい。というのも、所有物を介して行われていた言語的コミュニケーションを、サブスクリプション・サービスは代替し得ていないからである。では、その言語的コミュニケーションが失われたことによりなし崩し的に瓦解したものがあるとするならば、それはどのようなものなのか。その返答として、私的所有に対する輪郭線を浮かびあがらせることは、強引ではないだろう。

物の貸し借りという行為は、私的所有の輪郭を曖昧にさせる現象だとも言えよう。当然、サブスクリプション・サービス以前も、土地や家屋などの、一般に「所有権」が取り沙汰される領域において私的所有の輪郭は厳密であった。いわゆるイギリスのディスクロージャー以降、産業革命以降は日本でも大なり小なりそうであったはずである。ここで言及したいのはその概念がどこまで侵食したか、ということについてである。つまり、その私的領域、私的所有なる概念が、ごくごく卑近な領域にまで広がっていったのではないか、ということである。

私的領域の輪郭線がより卑近な領域に至るまではっきりとしたものになっていくこと、わたしのものとあなたのもの、わたしの世界とあなたの世界、「わたし」と「あなた」がはっきりと分割されていくこと。そのことが、サブスクリプション・サービスの台頭により始まった、などという暴論をここで開陳するつもりは毛頭ないし、それは私たちが言語を獲得した瞬間から始まった一つの運命なのであろう。ただ、それは資本主義と個人主義が手を結んだ社会が進めば進むほどよりはっきりとした分割線として浮かび上がってくるものであろうし、その発露としてサブスクリプション・サービスの台頭と物の貸し借りの減少という現象を捉えることは可能であろう。それらが進むことがどう問題であるのか?問いに対する応えは様々であろうが、たばこがどのように社会的に制限されてきたかということについて概説することで充分であろう。

資本主義市場は、個人が生み出す富の量を効率的に最大化することで発展してきたものである。フォード式の車の生産が生産方式における革命だとされているのも、資本を持たない個人が、労働者として資本家の私的所有物を用いて財を作るという過程において、徹底的な効率化により労働者の生み出す富を最大化させ、そこで生じた剰余価値を資本家が獲得するという限りにおいて、革命的だからである。効率性を徹底し、富を最大化するというモデルが、労働者個人の身体の健康管理にまで行き届いた一つの例が、たばこの社会的制限である。そこで名目として取り沙汰されているのが、受動喫煙による健康被害の防止であるが、そもそも、私たちが社会的動物である限りにおいて、他者の健康は害しうるし、アルコールの過剰摂取による依存症患者や中毒による死者が後を絶たない現代において、たばこのみに焦点が当てられるのはなぜなのか。効率性の徹底による富の最大化の水準を、工場内の労働から私たち自身の健康管理にまで拡大しているから、というのが一つの答えになるだろう。よりはっきりと言えば、その試みが徹底されれば身体に害なす行為は全て悪とみなされるようになる、ということである。つまり、その身体が生涯にかけて生み出す富を少なくさせうる=寿命を縮めるもの(たばこであれ、酒であれ、砂糖であれ)を、禁止させるという形で進められる効率化のヴァージョンである。個々人の身体であれ、私的所有物であれ、その輪郭線を明白にしてきたのはシステムの都合である。それが、資本主義以前の社会であれ、以降の社会であれ、権力にとって必要な形で明白に分割され、統制される対象となってきた。当然それはイルミナティの陰謀のような、一つの権力という形をとって行われるものではなく、様々な権力が、様々な形をもって、様々な経緯で現状こうなっている、という理解が正確であろう。

「資本主義と個人主義が手を結んだ社会が進むことがどう問題であるのか?」という問いに立ち返ったときに、その返答は様々なものであると言及した。その答えの一つは喫煙に関する云々であろうし、私たちの身体に関する云々であろうし、その他様々なものがあろう。ここで強調しておきたいのは、それらを分析することがここの主題なのではなく、それらに抗するためにはどうするか、ということである。私はここで分析を述べたいわけではなく、抗するための方法を共有し、ともに抗したいというだけである。様々な抗い方があるだろうが、ここで本稿を書いた理由にも接近する現実的な貸し借りについて言及しておきたい。本である。

私が本稿に手をつけているのもこのためである。私は部屋で喫煙をする。メルカリなどのサービスによりC to Cの市場も開拓されきった現代社会において、「たばこを部屋で吸います」「猫を飼っています」などの文言をネガティブなものとして注意書きすることは日常的なものになった。どれだけの人間が私的財産をやりとりするにあたって、個人の振る舞いに注力せねばならなくなったのか。そのうち顔面偏差値なる概念が整備されれば顔面偏差値の度合いによって二次流通品の値段が左右される社会になってもおかしくないな、など考えることがさほどおかしくなくなっている。そんな中で、図書館に行けば本は借りられる。返ってこないことがあり得る中で、どんな市民にも開かれた図書館というものは普通に存在する。貸した人間がどのように使うかということを目くばせせずに、貸し出すことの社会的意義という観点からのみそれらのシステムは制度化され、現に私の部屋にたばこを吸った延滞図書が存在している。資本主義と個人主義が手を取り合う社会においてそれらのシステムが存続しているのは過去の産物なのかもしれない。TSUTAYA図書館に代表される官民一体の図書館サービスによって、それらの公共サービスも企業により担われ、10年に一度借りられる埃を被った書物は非効率で価値のない書物とみなされ廃棄され、人気のある自己啓発本が手に取りやすい書棚に陳列されるディストピアは眼前にあるのかもしれないが、いずれにせよ私たちはまだ貸し借りと私的領域の曖昧さの次元と、それらを介して感じることのできるあのセレンディピティに接近することができる。まだどうにかなっているのである。

そのようなバランスで成り立っている領域に対して、延滞という形で迷惑をかけていることへの謝罪と、自分がキーボードを叩いて書かれたものが他者に開陳され、書かれたものが言及できなかった領域があることをわかりながらも、産み落とす営みに身を置き、若干なりとも私の私的領域を共有する目的で、これから読書録を書き記していこうと思う。破綻することが織り込まれた他者とのわかりあい、空虚が埋め込まれた言語的コミュニケーションの世界に、あの尊い私的領域が不文明だった時代の物の貸し借りの時代のあの感覚の側に立つために、私が読んだものを共有したいと思う。図書館の側に立つこと、当然運営主体もまた行政=権力であるわけだが、その中で抗ってきた人々の側に立ち、その大きなうねりの中に拙文を置き、ともに考えること、その営みに参入することができれば、これ以上にない幸せだと思う。

2024年の学士論文として上梓するもののために、現在ファッション・スタディーズと呼ばれる領域に隣接する本や論文を読み漁っている。ファッション・スタディーズに関する研究を行なっているのも古着という産業に携わってきたからということが多くを負っているわけだが、こうして書いてみると、私的所有の領域に属する服というものの中に、全所有者がいたという事実が言いようもなく染み出してくる古着という領域が、図書館や本という事柄と隣接した箇所にあるような気がしてならない。事後的に自分のテイストの癖を認識する機会は毎日のように訪れるが、書くこと、読むことがそれらの多くを負っているという意味で、拙文があなたに何か貢献できればと思う次第である。次の書評で。


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