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ものを見るということ

小学校教員時代の拙文を再掲。(2003年「PTA通信特集号」第56巻より)

 『ブッタとシッタカブッタ』(小泉吉宏著・メディアファクトリー)というエッセイ集に、主人公のシッタカブッタが、馬の尻、耳、たてがみ、鼻だけを見て「馬」を知ったつもりになるという話がある。非常にシンプルなコマの中に、深い真理が鋭く描かれている。本当の意味で「ものを見る」ということは、意外に難しい。

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 2年間という非常に短い期間ではあるが、テレビ報道の現場で編集という仕事に携わりながら、いくつか考えさせられることがあった。その一つが、メディアの現実との乖離という問題である。

 一般に160~170度はあると言われる人間の視界から、ごくわずかな四角い部分を切り取った時点で、その背後や陰にあるものは見えないもの、あるいは存在しないものとなってしまう。どんなに大きな事故にしても災害にしても、ブラウン管を通した途端、「リアリティ」がそぎ落とされ、現実とは遠い非常に無味乾燥で「安全な」ものへと変えられる。映像を見ながら、それが本物なのか作り物なのか分からなくなることさえある。しかも編集の威力は絶大で、同じ映像でも、順番を変えたり、色を変えたり、効果音や音楽をのせるだけで、印象ががらりと変わって見えてしまう。視聴者に一定の感情を与えることもそう難しいことではない。

 メディアはその影響力の大きさゆえに、今日に至るまで数々の戦争に利用され続けてきた。戦時中、マスコミの力が大きく戦況を左右したという事実も、容易に納得できる。従軍記者たちは攻撃する側からの「アングル」でしか、戦況が見ることができない。同じ現場で取材をしても、何をどのように撮るかで、見えるものはまったく違ってくるのである。

 昨年度、小学校創立記念日に講演してくださった絵本作家の小林豊さんも、「世界一美しい」はずの国に対して、危険で暴力的というイメージが「作られている」ことに警鐘を鳴らしている。「今の日本には情報があふれている。私たちはその情報によって、あたかもすべてを正確に知っているつもりになっている。でも、ある意味で、切られているんです。物事を正しく捉えるということを、情報によって切られている。怖いと思います」

 これらの問題は、作る側、伝える側の責任であるとともに、受け取る側に選ぶ力があるかどうかという問題でもある。情報が多ければ多いほど、その取捨選択能力が問われてくる。そしてそれは、表面的な「現象」から「本質」を見抜く力でもある。 

 物事を一面的でなく、多面的に見るということは、何もテレビだけの話ではない。子どもたちを「見る」うえでは、特に必要とされる。一教師から見えている部分が子どものすべてではない。公の場でやさしくふるまえることだけが「思いやりがある」とは言えないし、テストの点が高いことだけが「優秀」だとも決して言えない。誰にも見えない意外な一面というものが、どの子にも必ずある。

 知った「つもり」と見た「つもり」。人間の感覚が、いかに不完全で疑わしいものであるか。まずはその限界を知ることから始めなければならない。私自身、日々見ているようで見ていないものが案外多いことに気づく。そして、決して「シッタカブッタ」になることなく、常に謙虚に、そして貪欲に本当のことを「見極める」者でありたいと思う。

《参考文献》
『ブッタとシッタカブッタ』(小泉吉宏著 メディアファクトリー)
『ひろがれ国語』第三号(国語教室ネットワーク企画・編集 東京書籍)

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