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『社説三十年』に見る「戦犯」武藤富男

(2010年5月23日「松ちゃんの教室」ブログ記事再掲)

 キリスト新聞の創刊から主筆として長年社説を担当した武藤富男の著書『社説三十年――わが戦後史』第一部(キリスト新聞社)を読み返した。

 個人的に興味深かったのは、かつて政府の中枢にいて戦争の一端を担った武藤が、戦後、その反省から、『平和憲法を護れ』と掲げる非戦論者へと変えられていった経緯である。同書は、1946年から76年までの30年間に執筆した社説の中から、武藤自身が厳選し、それぞれに解説を加えたもの。

 まずは、戦時中の彼の境遇を証明する文章から。

 司法官として立法事業にたずさわるという地味な仕事をしていた私が、満州国の外交とジャーナリズムに華やかなデビューをしたのは、一九三八年であった。その翌年三月、総務長官星野直樹は私を総務庁弘報処長に抜擢した。日本政府でいえば情報局長の地位であった。
 しかし私の信仰生活はどうであったか。日本基督新京教会の長老をしていながら私の足は次第に教会を遠ざかった。政務が忙しいというのは口実であり、俗世的野心が私をキリストから遠ざけたのである。三十五歳で、新聞、放送、映画の指導権を握り、周囲からちやほやされ、新官僚群の一人として、日本政府や日本ジャーナリズムからも嘱目されるようになった時、私の心に、傲慢が生じた。いわゆる増長慢である。そして少年時代、郷里神山の人々の人生観――人生の目的は権力を得るか金を売るか、いずれかであるという人生観は、聖者になり、キリストの如くなるという私の志望を心の隅におしやってしまった。私は、将来日本の天下が取れると、ひそかに思ったのである。
 敗戦は私を打ち砕いた。私の傲慢は日本陸軍とともに、アメリカにより破砕されたのである。その時、私のうちに残っていた信仰が切り株から芽の吹き出る如く芽生えてきた。これを育てたのは賀川豊彦であった。否、賀川は信仰的にこれを育てたのではなく、私に『キリスト新聞』をやらせることにより育てたのである。いわば賀川は切り株の根元に水を注いだのである。育てたのはキリストであった。(119-120頁)

 35歳という若さでの登用には驚くばかり。そして傲慢とは言え、「天下を取れる」と思えるほどの高い地位にいたこと、それだけの評価を得られる才気とカリスマ性を持っていたことは確かであろう。

 私自身は戦争指導層の下部にいて、実戦に参加していなかったので、直接人殺しをした経験がないため、夜も眠れぬような苦悩はなかった。むしろ日本官僚群という組織の中にいて、いわゆる「国策」に従って仕事をすることを義務づけられた私にとっては、追放によって官界から足を洗うことには、解放感の悦びさえあった。
 私にとっての「悔い改め」は、青年の時志を立てて伝道者にならずに、官吏になったことが、神から与えられた能力を、神の栄光を現わすために用いない結果になったことへの悔悟であった。私の転身にはかなり功利的なものがあるとの批判を受けるかも知れない。しかし私が官吏になったことには功利的なものがあるが、『キリスト新聞』に献身したことには、いささかの功利もなかった。むしろ後半生を伝道にささげようとの決意から出ていた。
 …日本の官吏で追放になった人たちは、何とか生きる道を見出していた。しかしその心には、空虚と寂寥とがあった。そして戦争に対する悔い改めはあまり見られなかった。ただ戦争をしかけたとことがまちがっていたという悔恨だけは誰にもあったようである。(62頁)

 武藤は、いわゆる「公職追放」の身にありながら、占領軍には内緒でこの社説を書き続けた。末尾の一文はとりわけ注目に値する。「悔い改め」の見られない官吏の間にも、戦争をしかけたことに対する「悔恨」はあったという。内外の事情を知る者にしか書けない貴重な証言である。

 続けて、武藤が「極東軍事裁判」をどのように見ていたかを示す文章。

 戦争指導陣営の一角にあって、国民を動かす仕事にたずさわっていた私は、追放されただけで、処罰を受けず、戦災にもあわず、生命を全うして、今追放解除の身となり、自由に行動できるようになった。しかし戦死者および戦犯刑死者は犠牲になっただけで、何ら報われるところがない。ここでまた東条英機の死を思い、十三階段をのぼり行き、縄が首にかかり絞められる時の彼の心のうちを思い起こした。自分が絞められる思いであった。(345頁)

 被告になることを免れた武藤だが、近しい立場にあった「戦犯」たちと共に、自分自身が裁かれているように感じていた。他方、手のひらを返したように被告を叩くマスコミの姿勢を厳しく批判し、「共に裁かれん」と題する社説を書いた(1946年9月21日付)。

 事実、私はスモール戦犯であった。しかしポツダム宣言による「戦争犯罪人」にはならずにすんだ。ところで、市ヶ谷の極東軍事裁判にかかっている二十八被告のうち、大部分は面識があったし、そのうちの幾人かは親しい間柄であった。
 …この社説は、そうした心境も手伝って書いたのであるが、公憤も抑えがたいものがあったのである。というのは、私が情報局第一部長で日本の全新聞を指導していた時代には、国家総動員法で用紙の統制をしていたこともあって、新聞は政府の指導方針のとおり記事を書いた。たまに問題があっても陸海軍の間の争いくらいのところで、それこそ東条首相以下政府の要路に対しては、頼みもしないのに、へつらい記事をのせたものである。
 ところがどうだろう、敗戦とともに新聞の態度はガラリと変わった。これはやむをえないにしても、かつて媚びへつらった東条英機に対しては、まるで悪人を扱うような書き方をし、関西において浮浪生活をしていたその弟の記事などデカデカと載せて、わざと東条に恥をかかせるというやり方であった。その他の被告たちに対しても、まるで逆賊を扱うような態度をとった。そのため新聞に支配される国民の中には、死屍に鞭うつような言動をなす者が多かった。
 このような状況下において、極東軍事裁判に対しては共に裁かれる心持をもって、これを見守るべきことを一般社会に訴えるとともに、現に受けつつある国民的苦難を、神の審判として受くべきことを説いたのであった。(42-43頁)

 こうした変遷を経て1950年、朝鮮戦争の勃発後、トルーマン大統領が記者団の質問に対し「橋のたもとまで来れば渡らなければならない」と日本人部隊の使用を示唆したとの報を受け、「橋の手前」と題する社説を書く(1950年12月9日付)。以下、抜粋。

 我々は終戦直後において戦争の非を悟った。日本の起こした戦争が侵略戦争であったことを悔いたのは勿論のこと、更に戦争そのものの非を悟ったのである。そして新憲法が戦争放棄を宣言したことを讃美したのであった。胸に手を当てて考えてみよ。日本プロテスタントはその指導者と言わず、信者と言わず、ことごとくが、最早決して戦争をしない、また日本人は決して戦争をしてはならないと固く心に誓ったのではなかったか。
 またこの「戦争をしない」ということは自分の国と自分の民族のために戦争をしないという狭い意味でなく、どんな戦争でもいやしくも戦争というものには参加しないという意味ではなかったか。
 戦前戦時中の日本プロテスタントの態度には責むべき点が多々あった。我々はこれを悔い、これを反省した。それはイエス・キリストの御心に添いまつることよりも、この世の権力に従うことが多かったからであった。何時如何なる時にあっても、如何なる事態に処しても、プロテスタントの態度はイエス・キリストへの忠誠によって決定される。
 我々は今にして、戦時内閣の時に、その信ずる教義の故に投獄された少数のプロテスタント(特にホーリネス派の人々)の態度の崇高なりしことを思い、多くのプロテスタントが国家権力に引きずられたことに対し、再び三たび、ざんげと反省とをなすべきである。日本プロテスタントがこのざんげと反省をなした以上、各人はこの世の権力に押されず、引きずられず、ただキリスト・イエスを喜ばせまつることにのみ心を向け、その信仰と良心により、橋の手前において態度を決定すべきであろう。

 『社説三十年』には、次のような解説が付けられている。

 アメリカは平和憲法によって日本人の角を矯めておいて、これを従順にし、然る後、日本人をアメリカのための戦争に用いようとしていることを感じ取り、アメリカン・ヒポクリシー(アメリカの偽善)ということばまで作って、その態度を非難しようとしたのであったが、当時は占領軍のもとに検閲制度があったので、表から書くと検閲に引っかかり、新聞が発行停止を食うおそれがあり、私も公職を追放されていて、新聞には関係してはいけないことになっている故に、もしバレるとキリスト新聞社を去らねばならないので、アメリカに鋒先を向けず、日本人側で戦争に反対すべきを強調したわけである。
 この時から十六年たって、日本基督教団が「戦争責任告白」というものを出した。その文意には、この社説と同趣旨のところがある。アメリカが日本を占領してこれを再軍備し、日本人を戦線に送り出すおそれのある時は、黙していて、日本の自立が成就し、どこからも睨まれなくなってから戦責告白を出すのは証文の出しおくれと私が思ったのは、この社説をその時より十六年も前に書いているからであった。
 証文を出しおくれても、出さぬより出したほうがよいことは確かであるが、その内容は当り前のことを当り前に言ったまでで、信仰告白と同列に見るのは笑止の至りである。(302-304頁)

 教団の「戦責告白」に対する痛烈な批判もさることながら、現代にも通ずる平和憲法の意義と日本のプロテスタントが選ぶべき道についての明快な主張には感心させられる。同時に、戦後4年目にしてこのような主張をせざるを得ない政治状況にあったこと、以来60年以上、今日に至るまで同様の議論を繰り返し、いまだにその水準から抜け出せていない未熟な国内世論を見るにつけ、人間の罪深さを思わずにはいられない。

 武藤同様に重い「戦争責任」を負った賀川豊彦や、最高責任者である天皇への言及がないこと、「一億総懺悔」の問題性など、多くの課題を抱えた書物ではあるが、その資料的価値は計り知れない。


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