天皇「代替わり」をどう迎えるか――戦後キリスト教ジャーナリズムの課題

 戦後、日本国憲法下で初めて行われた天皇の「代替わり」に際し、日本全土を覆った異様な空気を鮮明に覚えている。『キリスト新聞で読む戦後キリスト教史』(キリスト新聞社)で神学者の原誠氏は、当時の様子をこう振り返る。

「天皇制(問題)議論の高まりと同時に、全国に自粛ムードが広まり、長崎おくんち、京都時代まつり、東京まつり、日本歌謡大賞、五木ひろし結婚披露宴などが中止され、秋祭り、運動会、企業のイベント、団体旅行、お笑い番組、忘年会、門松などの自粛が広がったものの、自粛の行き過ぎに批判が続出した。89年1月7日に天皇逝去。87歳であった。報道各社は早朝より天皇関連の特別自主番組を編成し、通常番組を見たいことによる苦情電話は約2万6,000本にのぼった」

 あれから何がどう変わり、あるいはどう変わっていないのか。私たちはその動きにどう対峙すべきか。その手掛かりを、キリスト教ジャーナリズムの言説に依拠して模索したい。

侍従日記にも言及された「戦争責任」

 2018年8月、共同通信が入手したという元侍従の故小林忍氏の日記から、昭和天皇による85歳当時(1987年4月)の心境が明らかにされた。そこには昭和天皇の発言として

「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」

と記されている。

 天皇の病状が悪化した88年の『福音と世界』では、この日記の内容を裏付けるような貝沼信氏(編集長・当時)による洞察を見ることができる。

「天皇自身、国民のきびしい目を感じていたに違いない。彼は、アメリカ占領軍、そしてキリスト教人脈など、当時利用すべきものをすべて総動員して、神としての自己を否定する、『人間宣言』なるものを発して、その危機を乗り越えたのである」(1988年9月号)

 80年代後半に至るまで、すでに国政では元号法、靖国法案、中曽根康弘首相(当時)による靖国参拝など、天皇制の復活をめぐり激しい攻防が展開されていた。同じ『福音と世界』の76年2月号では、天皇の靖国参拝を受けて、貝沼氏が

「戦後三〇年にして、象徴天皇がその仮面をぬぎつつあると言ってよいかもしれない」「私たちは、天皇の背後にいて、天皇を象徴とすることによって自らの戦争責任を免れ、今なお天皇を象徴として高度に操作することによって、思想を統制し、私たちひとりひとりを支配・抑圧しているものを見破らねばならない」

と警鐘を鳴らす。

戦中世代が語る天皇

 戦後、日本のキリスト教界が自らの戦争責任に触れるまでには時間を要した。戦時中に天皇崇拝の罪を犯したことへの深く悔いから、牧師の安藤肇氏が『深き淵より――キリスト教の戦争経験』(キリスト新聞社)で戦後初めて教会の戦争責任を問うたのは1959年。教団・教派のレベルで戦争責任の告白が成されるまでには、さらに数十年の歳月を経なければならなかった。

「敗戦後、教会が戦争を防止できなかったことについての、また、戦時中の挫折についての根本的な反省なしに、戦後の活動を開始したとしたら、それは戦時中に犯したあやまちよりも、さらに大きなあやまちを犯すことになるのである」

と断じた安藤氏は、戦時中、著名な指導者が『国体の本義』を講義し、バルト神学の紹介者が『臣民の道』を講義した姿の中に、「信仰と良心の自由を確立して来なかった日本の教会の敗北の姿」を見出し、

「当時の教会は自己の信仰に自信が持てなかった……。もし教会が劣等感を持たなかったならば、教会は主体性を持ちつつ他の思想の人たちとも協同して、全体主義に抵抗することができたかもしれない」

と分析する。

「良心、言論、思想の自由の確立のないところに、何の道徳教育ぞや、である。教会は、平和と民主主義を守ろうとするあらゆる人たちと協力して、この良心と言論、思想の自由を確立していくべきである」(前掲書)

 「クリスチャン新聞」での連載をまとめた『戦争を知らないあなたへ』(いのちのことば社、2008年)には、天皇制に言及する証言も複数収録されている。幼いころから台北の組合教会に通っていたという宗像基氏(日本基督教団牧師)は、国粋主義的な風潮が強まる中、教会に通っている者は差別され、からかわれ、「自分を守るだけではなく、このキリスト教を守らねばならないという悲壮感から、率先して軍事教練に励み、神社参拝をもした」と告白する。

「『軍人勅諭』をはじめ、多くの天皇の勅諭を覚えることが至上命令だったのです。情けないことに、その後お守り代わりに聖書は持っていましたが、一度も読んだことはありません。ひたすら訓練と天皇への忠誠心にのめり込んでゆきました。……確かに天皇自身による出撃命令と受け取った私たちは改めてその決意を深めたものでした。その天皇が戦後、『朕は知らない、命令をした覚えはない』と言うので、それが私の天皇不信の一因ともなっているわけです」

 同じく日本基督教団牧師の山本圭一氏は、

「戦没した若人の問題は、決して過去のことではない。戦争は、いつのまにか過去から抜け出して走り寄り、世界中の人間の先回りをして、今、私たちの前方に立っている。……あの非業きわまりない戦争で尊い生命を失った人々の悲痛な叫びにわずかでも呼応し、鎮魂の歌を刻まねばならぬ。そのために世の中の片隅を掃除する役目でよい。聖書によりキリストとの出会いによって、私は天皇制の呪縛よりはじめて解放された」

という。

改めてキリスト者の戦後責任を問う

 大嘗祭を控えた1990年頭の「キリスト新聞」社説は、「九〇年代を迎えて」との見出しで次のように予見する。

「大嘗祭の問題は、何ごとでも比較的自由にものが言える現在の問題というよりは、十年後、二十年後、現在第一線に立たされている私たちが、どのような歴史の審判を加えられるか、一つの試金石としての重い課題であろう」(1990年1月1日付)

 大嘗祭が行われた11月号の『福音と世界』で貝沼氏は、

「たとえ枠組は変わったとしても、それを支える私たち一人一人の意識が変らない限り、いつでもかつての天皇制は甦えりうるのである。かつて、国家神道を宗教ではないとファシズムと折り合ってきた日本の教会と神学において、その体質はどれだけ清算され、克服されているのであろうか。戦後このかたわれわれ自身の心にある天皇制と正面から向き合うという神学的作業が、どれだけなされてきたのであろうか」(1990年11月号)

と疑問を呈した。

 信教の自由、戦時体制への反省から天皇制に異を唱える教会の姿勢について、「日本宣教の妨げになる」「だから1%の壁が越えられない」「過去は水に流して未来志向」「いつまでも過去にこだわるな」とする言説がまかり通る今日、なおも「天皇をだれと言うか」との問いに、キリスト者はどんな答えを持ち得るだろうか。

「継承」の課題

 日本基督教団をはじめ、すでに複数の教派・教団が「代替わり」に関する意見表明を行っているものの、かつて四大学(国際基督教大学、フェリス女学院大学、明治学院大学、関西学院大学)の学長声明が出されたような動きは期待できない。昨夏、ピューリタニズム研究の第一人者によって上梓された『キリスト者への問い』(一麦出版社)は、「日本を愛するキリスト者の会」に象徴されるような「日本的キリスト教」の台頭のみならず、この問題を避けてきた歴代の著名な神学者たちの責任についても鋭く迫る。

 都教委による「日の丸・君が代」強制、道徳教科化、東京五輪への危惧――。憂うべき事態は枚挙に暇がない。かつて市民運動を中心的に担ってきた世代も第一線からの撤退を余儀なくされる中、これらの大波に対抗できる素地が教会に残されているだろうか。果たしてその志は次の世代に継承できているであろうか。「続けることに意義がある」として「愚直」に取り組んできた先達に敬意を表しつつも、メンバーの固定化と活動の形骸化など、将来的な展望を見出し得ない現状を前に、改めて「戦争を知らない世代」の立ち居振る舞いが、より一層問われてくるように思えてならない。良心と言論、思想の自由を確立するための協力・信頼関係はどれだけ築けてきただろうか。安藤肇氏をもって「全体主義に抵抗することができたかもしれない」と言わしめた過去の教訓を、今度こそ生かさなければなるまい。

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