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ハタから拓く「宗教改革2.0」

『宗教改革2.0へ ハタから見えるキリスト教の〇と✖』(2018年、ころから)序文より抜粋。

なぜ今「宗教改革」か

 修道士マルティン・ルターが時の権力と癒着した旧来のカトリック教会のあり方に抗議の声を上げてから500年。「宗教改革」はルターの名と共に、世界史の教科書などをとおして多くの日本人も知るところとなった。2017年は現地のドイツでも、ルターにあやかった人形から宗教改革をテーマにしたボードゲームに至るまで、さまざまな関連グッズが売り出され、及ばずながら日本のキリスト教界でも各地で記念行事が催されるなど、それなりの盛り上がりを見せた。

 しかし、中世に端を発した「改革」は、どこかで完結したわけではない。むしろ教会は常に「絶対者」の前で悔い改め、改革され続けなければならないというのが「改革派」を含むプロテスタント教会の信条でもある。では、日本のキリスト教はその務めを果たしてきたと言えるだろうか。とりわけ、「時の徴(しるし)」を見極めつつ啓蒙的な役割を担うべきキリスト教メディアは、一般メディアとは異なる独自の視点から、何らかの問題提起ができてきただろうか。

 カトリック教会の神父らによる性虐待を告発するジャーナリストたちの奮闘を描いた映画『スポットライト 世紀のスクープ』が、2016年のアカデミー賞を受賞して注目を集めた。同作は実話を元に作られたフィクションだが、これらのニュースが報じられた当時、教会組織による隠蔽の実態は世界的にも衝撃を与えた。こうした醜聞は国内でも無関係ではなく、『スポットライト』より以前の2008年に週刊誌アエラ(朝日新聞出版)が教会のカルト化と牧師らによる性暴力の問題を報じて、白日の下にさらされている。

 教会もしょせん「罪深い」人間の集まりに過ぎない。牧師や神父も人間である以上、過ちを犯す。しかし、そこに甘んじるのではなく、自らの宗教者としてのあり方を問いつつ、どこに構造的な課題があるのか客観的に検証し、未然に防ぐための措置を講じるような自浄作用は最低限求められて然るべきである。

 そのためには、身内による耳障りのいい言葉だけを聞いていてはいけない。耳を傾けるべきは、「忖度」して本音を言わない「お友だち」ではなく、真の「愛」をもって時に痛いところも突いてくれる「無党派」層の声ではないか。

創刊から貫いた「ハタから」の視点

 2009年、キリスト新聞社は「次世代の教会をゲンキにする応援マガジン」と銘打ってキリスト教総合情報誌「Ministry(ミニストリー)」を創刊することになった。1946年の創業以来、「キリスト新聞」という週刊紙ひと筋で来た老舗の専門出版社だったが、特定の教派に偏らない「超教派」の強みを生かし、地方で疲弊する若い牧師や教会員の支えになるようなメディアを、というのが当初のコンセプトであった。

 成り行き上、新聞の編集長を任されていた私が同誌の編集長も兼任することとなった。雑誌作りのノウハウなどまるで知らない(無謀にもほどがある)状態だったが、新媒体を始めるにあたって、どうしても実現したい連載企画がいくつかあった。キリスト教の信者ではないものの、さまざまな形で教会や聖書と接点のある著名人に客観的な立場から提言をもらうというインタビューも、その一つ。題して「ハタから見たキリスト教」。その時点で、すでに話を聞きたいと思う面々の顔ぶれが複数人、頭に浮かんでいた。

 これまでのような宗教色の濃い、どこか辛気臭くてあか抜けない媒体ではなく、ビジュアルを重視し、「電車の中でも読めるキリスト教雑誌」を目指していたこともあり、表紙やグラビアページに教会外の社会で活躍する著名人に登場していただくことは必須の条件でもあった。もともと内に「ひきこもり」がちなキリスト教界に外部からの風を吹き込み、あわよくば信者以外の読者を獲得したいという魂胆も背後にはあった。限られた数の業界誌で似たような書き手を使い回す風潮にも辟易していたので、これは絶対に読まれるはずという根拠のない自信があった。

 以来、今日まで延べ20人以上の方々にご登場いただいた。牧師や神父をはじめ、家族や親族にクリスチャンがいる、キリスト教をモチーフにした作品を手掛けたことがある、それらに出演したことがある、聖書に興味関心があるなど、それぞれに何らかの接点を見つけては積極的に取材の依頼を持ち込んだ。作家、漫画家、評論家、医師、俳優、映画監督など、職業も多岐にわたった。なかでもクリエイティブな仕事に携わる方々に共通していたのは、かつて聖書を読んだことがあり、大なり小なり何らかの影響を受け、その教えにもシンパシーを感じている人が少なくないということだった。

 連載にはさまざまな反響が寄せられた。「牧師や信者には言えないことをよくぞ言ってくれた」「次は〇〇さんにインタビューしてほしい」「第三者から一方的に言われるままではなく、『応答』も必要ではないか」などなど。いずれもありがたく受け止めている。

 創刊当初、おぼろげに抱いていた手応えは「信じるつもりはないが知りたい」人々(信者を「ガチ勢」とするなら、いわば「にわかファン」)の存在を知るようになって、半ば確信に変わっていった。内輪の力だけでは変われない。「ハタから」の視点こそが必要だと。

 教会は長く「伝えたいことを(一方的に)伝える」ことにのみ専心し、それこそが伝道(布教)だと思い込んできた。しかし、それはただの広告・宣伝(プロパガンダ)であって、「聞きたいことに答える」という広報・PRの役割は果たしていないことに気付かなければならない。他者からどう見られているか、何を期待され、何を期待されていないのか、まずはそうした客観的自己評価を試みるところから始める必要がある。そうでなければ、「信じるつもりはないが知りたい」という需要と、「信じるつもりのない人々には教えない」という教会側の狭隘な宣教観が交わることは永遠にない。

 1995年の地下鉄サリン事件を発端とする一連のオウム事件からすでに20年余。当時を知らない「オウム以後」の世代が次第に増え、良くも悪くも宗教「的」なものへのアレルギーは薄れている。さらに2011年の東日本大震災を経て、生と死に向き合う宗教界に注目と期待が寄せられた。本来ならば、今こそ私たちの出番のはずである。格差が広がり、政治や社会の脆弱性が露呈し、ますます混迷を極める国際情勢の中で、いま求められているのは「ハタから」の視点によってこそ拓かれる「宗教改革2.0」のムーブメントなのだ。

 そしてもし、500年後の「改革」によって宗教者自ら変わることができれば、「日本SUGEEE(すげえ)」「俺TUEEE(つええ)」と自尊感情を鼓舞し、自国の安全と国益のみを「ファースト」にしたがる排他的独善主義と決別し、他者理解を深める糸口も見つかるはずだと確信する。


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