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誌上ディスカッション「特報!神学最前線」信者獲得を至上命題とする宣教はもう古い? Ministry vol.44

(2020年3月刊「Ministry」第44号・連載「特報!神学最前線」より)

 巷では答えの出ない堂々めぐりの議論を「神学論議」などとたとえたりする。しかし、本来の神学をめぐる議論はそんなものではないはず……。今回は、満を持して編集長が発題者として初参戦!

 キリスト教メディアという特殊な職業柄、キリスト教徒以外からさまざまな質問攻めにあうことがある。「牧師って平日は何してるの?」「給料はどこから?」といった素朴な疑問から、「理不尽な事件・事故を神は見過ごすのか?」という鉄板の神義論に至るまで実に幅広い。

 なかでも印象に残っているのが、「あなたたちクリスチャンの最終目的は?」との問いである。献金を集めること? 教会を維持すること? 信者を増やすこと? もし、宣教命令に従ってキリスト教を全人類に周知させることができれば、それで無事「〝神の国〟コンプリート」と喜んでいいものだろうか……。答えにやや窮しつつ、あくまで「個人的見解」と予防線を張りつつ、私は次のような趣旨の答えをひねり出した。

 「信者を増やすことが目的じゃない。キリスト教『的』な精神に則って生きる人が増えることで、社会がより良くなれば」

 「宣教」「伝道」とひと口に言っても、それぞれの信仰歴や教派的背景、聖書理解によってそこに想定される具体的な行為は実に多様だ。おそらく、前述のような答えに異論を唱えるキリスト教徒も多いに違いない。「信者を増やす必要などないとは何ごとか!」「聖礼典の軽視だ!」と。しかし、厳格なキリスト教徒の家庭に生まれ、ピューリタニズム研究を専門とする牧師の伯父から薫陶を受けつつ、信仰を持たない妻と結婚し、多様な信仰者と接する中でたどり着いた一信徒の偽りない実感ではある。

 カトリック教会で若者を中心に絶大な人気を誇る「はれれ」こと晴佐久昌英神父は、「教会の外にも救いはある」と公言してはばからない。しかし、カトリックの「保守的」「正統的」な立場からは疎まれている向きもあるようだ。2013年7月21日の説教「神は、すべての人を救ってくださる」で晴佐久神父は、自身の説教を聞いた80代の司祭が「カトリック新聞」に投書した懸念を紹介している。

「もし、(キリスト教徒もそれ以外も)皆同じだとしたら、地獄は閉鎖される。が、イエスが言われた『主よ、主よという者が皆、天の国に入るのではない』、また、左に置かれた者に『永遠の火に行け』、さらに『信じて洗礼を受けるものは救われる、信じないものは罰を受ける』ということばをどう解釈するか。……この考え方は今、日本に広がっていて人気があると言われて、私はショックを受けました」

 「第二バチカン公会議の申し子」と自称する晴佐久神父は、微塵も動じない。

「誰も、死後のことを絶対に言い当てられてない、絶対に。もちろん天国のことも、言い当てられてない。神の愛のことも言い当てられてない」「でも、代々にわたって隠されていたその秘密は、イエスにおいてもう明らかになったっていうんだから、その明らかになったことだけを言うべきでしょう。私はそれを『福音』と呼ぶし、それをみんなに伝えたい。『すべての人は救われると信じた人は、この世でも救われる』と」

 以前、韓国の教会に取材で訪れた折、私の妻がクリスチャンではないことを知った20代と思しき女性信徒から、真顔でこんな質問を受けた。「あなたの大切な人が天国に行けなくてもいいんですか?」。聞かれるまで考えたこともなかった。確かに日本でも、教派によっては地獄や「信じない」者が受ける罰を強調する教会は少なからず存在する。私にとってのキリスト教も、どちらかと言えば「福音に生きる喜び」より「禁欲的な生活の勧め」に力点が置かれてきた。しかし、誤解を恐れずに言えば、私自身が死後に天国へ行けるかどうかなど正直どうでもいい。どうせ死んでいるのでわからないし、誰も「絶対に言い当てられてない」。だとすれば、生前からそこに一喜一憂する意味がわからないのだ。

 「敬虔な」信徒が「救われていない」他者を憐れむ図式は、「ガチ勢」(熱心にコミットするコアな古参)がファン歴の浅い「にわかファン」を見下す構図と似ている。しかし、ラグビーのワールドカップで再注目されたように、その存在意義は限りなく大きい。当初はルールや専門用語の知識も乏しかった多くの「にわかファン」がすそ野を広げ、低調だったラグビー人気に火をつけ、観客の動員にも貢献した。サッカー界ではすでに、「グラスルーツ(草の根)」という理念に基づく組織的な取り組みが始められている。一部のエリートだけでなく誰もが楽しくプレーできる(「ガチ勢」に対して「エンジョイ勢」とも言う)ことを目指す施策で、FIFA(国際サッカー連盟)はトップレベルのサッカーを支える基盤として、その国のサッカー文化の厚さとなるものとして重視している。まさに、「グラスルーツなくして代表選手の強化なし」なのだ。

 教会にも私たちが思い描く理想とは異なり、「不純な」動機で訪れる「にわかファン」が少なくない。観光ガイドに載っているから見学に来た、ロマンチックなイブを過ごすために来た、レポート課題を提出するため牧師のサインをもらいに来た、最近では、レアポケモンを求めて……などなど。しかし、「ガチ勢」のみで牛耳られた排他的コミュニティに未来はない。聖書を信者だけの聖典として占有し、英会話や音楽バンド、おいしい食べ物で誘い出し、厚く高い壁に覆われた教会の中に囲い込む時代は終わった。いま求められている宣教とは、「にわかファン」から「ガチ勢」に仕立て上げる方策をあれこれ工夫することではない。すべての人々とあらゆる機会で接点を持ち、すでに与えられた祝福と福音を分かち合うことなのではないか。とりわけ東日本大震災を経た日本の教会は、「中」に閉じこもらず「外」へ出ていくことでかえって大きな恵みを得られたことを体感しているはずなのだ。

 この場を借りて神学的素養のない迷える子羊に、ぜひご教示いただきたい。洗礼を受けさせることのみをゴールに掲げる伝道は虚しくないだろうか。毎週の礼拝出席者や毎年の受洗者数を躍起になって数え上げるのは、そろそろやめたらどうだろうか。だとしたら、教会という信仰共同体にとって、宣教とは、洗礼とは果たして何だろうか。

*5人の執筆陣による応答コメントは本誌で。
https://shop-kyobunkwan.com/487395777x.html

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