見出し画像

茶の間のテレビと私の「2世問題」

「昨日の○○(バラエティ番組)見た?」

それは、受験を間近に控えた高3長男の何気ないひと言から始まった。我が家では全録レコーダー搭載のテレビを導入して以来、それぞれが好きな番組を(同じ番組を見たいと思っている家族と)一緒に見る習慣が定着しつつある。

長男が言うには、学校ではもはや「昨日の○○見た?」がほとんど通じないのだという。彼がまだ小学生だった10年ほど前は、『レッドカーペット』があり『エンタの神様』があり、さらにさかのぼれば『オンバト(爆笑オンエアバトル)』があり、翌日には必ず学校で友だちと話題にしていたのに、高校の同級生の中にはお笑い芸人の名前すら知らない子もいるという。それほど多様化が進み、テレビはもはや見られていないのだ。

メジャーなバラエティ番組でさえ、切り取られたTikTok動画で一部を目にしているだけで、毎週欠かさずオープニングからスタッフロールまでを見ているわけではない。

そんな中、テレビの話、映画の話、漫画の話を他でもない家族と共有できていることは、かなり幸せなことなのかもしれない。経済的理由からも、同じ番組をそれぞれ自分の部屋で、好きな時に一人で見るという住環境ではないため、それぞれスマホやタブレットは持ちながらも、リビングの広さの割には小ぶりのテレビ(ほぼ録画されたもの)を一緒に見ざるを得ない。しかし、この時間は子どもが自立しつつある今となっては何ものにも代えがたい。

たびたび方々で紹介しているとおり、厳格なクリスチャンの家庭で生まれ育ち、さまざまな独自ルールのもとでしつけられていた私にとって、とりわけ週30分しか視聴を許されなかったテレビへの思い入れと執着は人並み以上であった。

世間が『ひょうきん族』派か『ドリフ』派かで論争していた当時、就寝時間が夜8時と決められていた私は、何の話かついていけない派だった。親の価値観からすると、くだらない俗悪なものに触れさせたくないという教育的配慮だった。

一方で、親が欠かさず見ていた毎週日曜夜の大河ドラマ『いのち』(1986年1月~12月放送)や、朝の連ドラ『はね駒』(1986年4~10月放送)の映像は今も脳裏に焼き付いている。父が『笑点』や大相撲中継を見ている間も、安心して存分にテレビを見ることが許された貴重な時間だった。

友だちが自由に使えていた「おこづかい」も、小学校高学年まで手にしたことがなかった。友だちと一緒に初めて駄菓子屋へ行った時、手にしたお金(50円?)がもったいなすぎて何を買おうか延々と悩み、店主をいら立たせた。町中に駄菓子屋が数件あり、子ども思いの名物店主が近所の悪ガキども相手に悪態をつきながら店を切り盛りしていた時代。

公園には紙芝居屋さんが来て、いつのものか分からない紙質の『黄金バット』やら『月光仮面』やら、名調子の紙芝居を披露してくれた。クイズに当たったらタダでもらえるソースせんべい(特製のソースやジャムをはさんで食べる)は格別の味がした。

https://www.event-goods.jp/mogiten/m-06.html

兄弟3人でなけなしの「おこづかい」を握りしめ、初めて買った『きまぐれオレンジロード』が表紙のジャンプ(1986年15号)は、隅々まで熟読し、ボロボロになった今も大切に保管し続けている。バラエティ番組どころか歌番組すら見たことがなかったので、全盛期のアイドルや流行りものは、すべて漫画や友だちの会話を通して知った。

ふと、忘れがたい出来事を思い出した。

小学校6年生で卒業文集を書いた時のこと。田舎には珍しいインテリ教員のもとで育ち、根が真面目で、学校でも「優等生」で通っていた少年が、滅多につくことのなかった親への嘘をついた。今思えば、どうでもいい嘘。

「一生残る文章だから、提出前に親に読んでもらいなさい」と先生から言われたというストーリーをでっち上げ、わざわざ両親に読ませたのだ。ただ自分の好きな漫画家と将来の夢を羅列しただけの駄文だったので、案の定、特に目立った反応はかえってこなかった。優しい母は、「いろいろなりたい職業があっていいね」ぐらいの反応は示したかもしれない。薄々、嘘とは気づきながら調子を合わせていたかもしれない。しかし、少年はただそれだけで満足だった。

好きなものを肯定してもらえない。

その後、本気で漫画家を目指し、夜な夜な自作の漫画に熱を入れる一方、好きなテーブルトークRPGにどっぷりハマり、友人たちと同人誌を作って、何度か泊りがけのセッションもした。親世代からすれば、賭け事で使われるサイコロをジャラジャラ振りながら、何やら怪しげな会話を交わし、飽きもせず仮想の世界をフワフワと遊びほうけているようにしか見えなかったに違いない。

どうせ理解はしてもらえないと思いつつ、どこかで肯定はしてほしかった。

最近、児童精神科医が書いた『子どもたちはインターネットやゲームの世界で何をしているんだろう? 児童精神科医からみた子どもたちの「居場所」』を読んだ。

これまでおぼろげに感じていたこと、そのものずばりが書かれていた。子どもが夢中になるゲームやSNSを、ただ頭ごなしに禁止して「居場所」を奪うことは得策ではない、といった趣旨の本だ。大人がよく知りもせず、なんとなく不安だという理由で、トラブルが起きると「だから○○はダメなんだ」と切り捨てることの問題についても正面から論じている。

「親子でポケモンにハマる」など到底考えられず、いわゆる「友だち親子」に憧れた身としては、人の親となった今、家族で同じアイドルの話題、同じ漫画、同じテレビ番組を享受できていることだけでも、子ども時代に味わえなかった感覚を取り戻せているように思えて嬉しい。

これが、特段「カルト」認定されているわけでもない、伝統的なプロテスタント教派のクリスチャンとして育てられた「2世」の物語。同じ「クリスチャン2世」でも当然もっとゆるい家庭もあれば、より厳しい家庭もある。美化するつもりも、卑下するつもりもない。唯一絶対の正解などない。少なくとも親と子どもと異なる独立した一人格の人間同士が、どう共生し、同居し、安心と安全と多幸感を味わうことができるかという話にすぎないのだと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?