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【芥川賞受賞作品研究③】

第165回芥川賞受賞 李琴峰『彼岸花が咲く島』

 2021年といえば、コロナウイルス流行から丸一年が経過し、道行くマスクを付けた人々が自然に感じられるようになった頃合いだったように思う。繫華街の賑わいも少しずつ回復し、東京五輪も開催。学校等も登校が再スタートしていた。2021年はまさに“日常”の回復の過渡期だった。
 その年の下半期芥川賞は二作同時受賞となった。芥川賞にとって、二作同時受賞はさほど珍しいものではない。初出の二作同時受賞は、第三回、1936年上半期受賞の小田嶽夫氏の『城外』と鶴田知也氏の『コシャマイン記』だった。まだ第二次世界大戦以前の話である。
 また21世紀になってからの二作同時受賞した作品には世間を騒がせた話題作が多い。2003年下半期には、当時最年少で受賞した綿矢りさ氏の『蹴りたい背中』と、映画化も果たした金原ひとみ氏の『蛇にピアス』が受賞した。2015年上半期には又吉直樹氏の『火花』と羽田圭介氏の『スクラップ・アンド・ビルド』が同時受賞した。『蹴りたい背中』と『火花』はベストセラーにまでなった。
 本題に入るとしよう。この年の下半期は石沢麻依氏の『貝に続く場所にて』と李琴峰氏の『彼岸花が咲く島』が芥川賞を受賞した。私は両作品とも読んでみたが、この二作の雰囲気、言葉遣い、「何を描こうとしたのか」という発想や意欲は全く異なる。前者『貝に続く場所にて』は小説自体の完成度の高さに目が向けられたが、後者『彼岸花が咲く島』ではその発想と小説内でなされた“新しい試み”が評価された。今回は『彼岸花が咲く島』について書いていく。

あらすじ

 舞台は日本列島よりも南に位置する架空の島である。
 その島の浜辺に打ち上げられた記憶喪失の少女・宇実と、宇実を発見した少女・游娜の邂逅から物語は始まる。その島には日本、中国、台湾、琉球の文化が混合されたかのような独特な文化が形成されており、主人公の宇実は最初は名前もわからず、文化にもなじめずに困惑する。しかし游娜と生活をともにするうちにその文化にも慣れていき、名前も与えられ、その島で生活の根を下ろしていくことになった。
 宇実は外部の人間ということで、その島の司祭である「大ノロ」と呼ばれる老人に島を出ていくように促されるが、説得の末に、「ノロ」になることができれば島を出ていかなくてよいという条件を突きつけられる。宇実が「ノロ」になるまでのストーリーが小説の大筋になる。

島の文化

 その島の住民は<二ホン語>と<女語>という二種類の架空の言葉を使い、<女語>は島の女性しかその使用を許されていない。そして女性しか「ノロ」になることはできない。「ノロ」になった女性は<女語>によって島の歴史を引き継ぎ、後世に伝えることができる。つまり、この島では女性の「ノロ」しか歴史を知ることができないのだ。

拓慈という少年

作品内で宇実、游娜と同年代の拓慈という少年が登場する。
拓慈は、男性でありながら<女語>を使用し、「ノロ」になって歴史を知りたいという野望を持っている。しかし島ではそれが許されていないということで彼は宇実と游娜に「ノロになったら歴史を教えてくれ」という密約をかわす。
拓慈の存在によって、「女性しかノロ(司祭)になれないこと」の文化の異質さが際立ってくる。しかもノロしか歴史を知ることはできないので、島内の男性はその歴史から締め出されていると言っても過言ではない。これは現実の世界の歴史の大半部分から「女性が締め出されている」ことの風刺、現実の反転世界というのは容易い。しかし、作者いわく、そうではないらしい。

女性が治める社会を作ってみたいと思っていたのです。単に「男女逆転」という意味ではありません。今のような男性中心の社会で、男性によって女性が高い地位に据えられても、本質は変わっていません。そうでなくて、これまで私たち人類が歩んできた社会の歴史から一度外れるような、真新しい社会を想像したいと思いました。

出典:『文藝春秋』2021年9月特別号「私をカテゴライズしないで」

 真新しい社会、それも女性が歴史を牛耳っている社会を構築したいという野心は、読んでいて確かに伝わってきた。
拓慈少年の役割は確かに効果的であった。これは今の社会で言うと、「女性だからという理由で役職がもらえない女性」とイコールで語り得るのではないだろうか。性別によって社会的地位に制約がなされる、そのことの是非が、拓慈少年の存在によって問われるのだ。

島の歴史

 なぜ女性が島の歴史を牛耳るまでに至ったのか。それが物語終盤で大ノロの口から語られる。引用文で全て書くと厖大な文字数となるので、ここは簡略化した私の言葉で甘んじていただきたい。
 まずその<島>の住民の先祖たちは、元々は日本にいた。日本で流行り病が蔓延すると日本国内で外国人を排斥する運動が盛んになり、最終的に日本を出ていかない人々を皆殺しにする事態にまで発展した。
そして追い出された外国人たちは、<島>に住み着いた。おそらくその島とは沖縄だろう。日本から追い出された外国人は、沖縄にいる人々を、自分たちが生き残るために皆殺しにした。
 沖縄の住民を皆殺しにした後、島内で食料の不足が起きると、口減らしに女性が人為的に減らされ、続いて能力の低い男性が減らされていった。
 その後、台湾が中国に奪われ、台湾に住んでいた人々が沖縄に逃げ込んできた。そしてまた戦いが始まった。
 いつの日か島の中で政治を仕切っていた男たちは悔い改め、その歴史と政治を女性に手放した。それによって、小説内の「女性が歴史と政治を仕切る島」が誕生したという。

 さて、本作品の大枠は粗方説明しきったと思う。これ以上細部まで書き連ねても、それは本作品を読む以上のものにならないと思うので、これ以上の説明は割愛させていただくことにする。そして私の語りたいことについて、書いていこうと思う。

創作のむずかしさ

 この作品は、現実の世界から要素を拝借して作者の頭の中で作られた、いわば空想世界である。物語を描いたことのある人ならわかると思うが、空想世界の中でキャラクターを作り出し、動かすというのは大変に難しい。物語の舞台を現実にすれば、現実のルールを適用すればいい。しかし空想世界には、現実のルールではなく、空想世界のルールを一から作り上げなければならない。この作品の致命的な欠陥はそこにあると私は思った。女性しかノロになれない世界、女性しか扱えない言葉、女性が切り盛りする政治、これらは現実には無く、その世界の発達段階を描いてない。この欠落が、読者側の私から見て、ある種の不信感を与えている。それは「作者の語りたい主題(テーマ)のために、作者にとって都合の良い世界が語られている」という不信感だ。確かにこの現実世界の、全てとまではいかなくてもある一定の領域は、男性にとって都合の良いものとして、恣意的に構築されている。だからこそ、空想の中、女性(作者)にとって都合の良い世界が作り上げられたとしても、それを倫理的に悪ということはできない。しかし、その世界で語られる言葉が、空想上のものであっても、現実の人々に矛先を向けてしまう可能性がある場合には、その言葉は凶器に変わってしまうおそれがある。

 私が本作品を読んで、上記のようなことを考えるに至った箇所を引用しようと思う。

お前らはびっくりするかもしれんが、あん時、偉い人たちはほとんどが男だった。国の方針を決めて、民衆を導く偉い人たちは、ほとんど男だったんだ。それだけじゃあない。歴史の担い手もまた男だった。歴史を作る人も歴史を語る人も、全て男だった。男たちは野蛮だったんでね、繰り返し繰り返し、醜い争いをし、戦をやった。流行り病で死んだ人なんざより、男たちが殺した人の方がよっぽど多かったかしらね。あん時、女っちゅうのはただ男の所有物でしかなかった。女が男のものになるっちゅう契りをする風習もあったね。契りを交わすと女は男とおんなじ家に押し込められて、男がいつでも好きな時に女を殴ったり、犯したり、殺したりできるんだ。オカスってどういう意味かって? そりゃ、無理やり子供を産ませるっちゅう意味さ。

李琴峰『彼岸花が咲く花』

 上記の文を読んだとき、私は背筋が凍る思いだった。確かにこの言葉は空想上の世界で語られた言葉である。しかしそれと同時にこの現実に、確かに意味を持って存在している言葉でもあった。言葉に込められた残酷な想いを、私はしっかりと受け取った。それは男性とカテゴライズされる人々へ平等に送られる敵意であり、作者だけのものではなく、この世界のどこかに住む、女性とカテゴライズされた人が抱く敵意だった。
 確かに彼女の作り出した世界は、どこか不信感を拭いきれないものがある。しかし、そこで語られる言葉は現実に、隠れているけれど存在している言葉だった。そしてそれはこの世界に住まう男性へ突きつけられた刃でもあると思った。上記の言葉を語り得ない人々、その言葉を封殺されている人々のために、この作品は代弁をしていると思えば、この作品の意義が、そして芥川賞に選ばれた理由が自然に理解できるのではないだろうか。

作品の所感

 いつもなら、「芥川賞選評」を陳列してから自分の感想を述べているのだが、今回はそれが卑怯なやり方だと思い、まず先に自分の所感を開陳させていただくことにする。それは、著名な選評者たちに同調し、さも正論かのように自分の感想を語らないためである。
 前回、前々回と、私は対象の芥川賞受賞作品に対して好意的に批評を行ってきた。というのも、作品の粗探しをしても、作品がより良くなることも、より悪くなることもないからだ。なのであれば、作品の良い部分を取り上げて、自分の作品作りの糧にするために、それを文章化した方が理にかなっていると考えるからだ。しかしながら、当作品では、上述したような不信感が付き纏ってしまい、私は一旦、自分なりにどこが納得できなかったかを分析し、その「納得できなさ」に理屈をつけてしまった。そしてそれをこの記事の主柱にしてしまった。作者には大変申し訳なく感じている。そして先に謝意を述べることで、後述する作品と受賞者インタビューに関する批判(決して批難ではない)を許していただきたい。

 まずもって感じたのは、上述した不信感である。そしてそれによって、「女性だからという理由で役職がもらえない女性」と同じ理論で、「男性だからという理由で、作品内で憎悪を吐かれる男性」という、私の立場上の問題でもあった。この作品はとてもセンシティブな内容を宿している。というのも、作中で男性に歴史を教えない理由が、「男性の過去の過ち」に由来しているが、現実では取り立てて、「女性の過去の過ち」によって歴史から締め出されたという歴史は私が学んできた世界史の中では確認できず、また、女性が政治を仕切る事例が、世界史の中では数少ないにせよ確認できる点だ(日本でいえば卑弥呼がそれに当たるだろう)。作中と現実のこの非対称性は、作者の頭の中で作られた空想世界への「納得できなさ」に変換され、作中の世界はやはり「作者にとって都合の良い」ように、恣意的に作られた世界であると感じ、男性という大きすぎる主語に矛先が向けられているということには、どうしようもない憤りを感じざるを得なかった。しかしながら、記事を書きながらであるが、その呪詛の念も弱まりつつある。それは「そこで語られる言葉は現実に、隠れているけれど存在している言葉だった」からだ。この作品はどこかにいる、不遇を強いられている女性の代弁をしていると考えた時、私は自分の至らなさをやっと自覚することができた。作者は自分のためにこの作品を作ったのではない、この世界に住む他者(女性)のためにこの小説を書いたのだ。

 文藝春秋の2021年九月特別号に掲載された受賞者インタビュー「私をカテゴライズしないで」を読んだとき、私は作者の「書き手としての姿勢」に少々疑義を抱いた。引用しよう。

「「『外国人が描いたLGBT小説』という枠を超えられていない」と、前回芥川賞候補になった時、西日本新聞の文化面で評されました。これは「外国人の描いたLGBT小説」というそもそも存在しない枠を作って、作品を中へ放り込んで閉じ込めるような乱暴な標語ですね。このような標語は、文学の自由という本質からかけ離れていると思います。
 私自身は、この人はこういう作家だ、と決めつけられたくはないですね。この世界はすごく複雑で人間の認識は限られているから、何かしらカテゴライズしないと全貌を認識できない。だから境界線を引いて、いろいろな国や人種を作るのだと思います。社会生活を維持するためのカテゴライズはたしかに必要ですが、個人主義的な考え方に染まった私としてはちょっと息苦しい」
「つまり、言葉を使うこととカテゴライズすることは切っても切り離せない。そこにはある種の暴力性がついてまわります。書くことに限らず、発する言葉一語一語すべてに気を配るのは本当に難しい。どんなに気をつけていても誰かを傷つけてしまうことはあると思います。だからこそ、たいせつなのはその暴力性に自覚的でいられるかどうかだと思っています。」

出典:『文藝春秋』2021年9月特別号「私をカテゴライズしないで」

 作者の、過去にカテゴライズされてきたことへの鬱憤が透けて見え、また、今後はそのように「私をカテゴライズしないで」という警告が垣間見える。しかしそれと同時に「書くこと」と「カテゴライズ」が切っても切れない関係であること、作中の言葉に暴力性がることには自覚しているようだ。
 作者の言うように、書くこと、そして書いた作品を発表することは、カテゴライズされることがついてまわる。作品は世に出れば、それの良し悪しはあれど、なにかしらのカテゴライズはなされてしまう。それは不可避の現象と言っても過言ではない。そしてカテゴライズされなければ、作品について議論を交わすこともできない。作品の是非については、彼女が息苦しいと感じるカテゴライズが必須条件に入って来ると私は思うのだ。それを拒否するようなタイトル「私をカテゴライズしないで」は、「私を無条件で受け止めて」と言っているようにも感じられる。しかしそれはもしかすると、この作品の文学・歴史上の意義を失くしてしまうことに繋がってしまうように思える。
 少し横道にそれるが、ドイツの哲学者・ハイデガーはナチスの崇拝者だったために、日本哲学界では一定期間、研究が停滞した過去がある。作者と作品の関係性もまたセンシティブなものだ。台湾出身の作者と作品を結び付けて考えることは、確かに一見無意味な排斥主義と結びついてしまうこともあるが、時代を経るにつれて、後世の議論の種に資する場合もある。作者の生い立ちと当事者性を無視して作品を語るのは、議論の可能性を失くしてしまうことにも繋がると私は思うのだ。
 作品が芥川賞という、日本最高峰の文学賞に選ばれ、その賞を受け入れたのであれば、カテゴライズされ、批評される覚悟・責任も有していただきたいと、とても恐縮ではあるが、私は思った。これは私が日本の男性だからそう思うのではない、と思いたい。私が一人の読者であり、芥川賞を目指す作家だからこそ、そのように思うのだと、思いたい。

 今回は、芥川賞選評は割愛させていただく。気になる方は「芥川賞のすべて・のようなもの」様の下記URLから参照していただきたい。
李琴峰(り ことみ)-芥川賞受賞作家|芥川賞のすべて・のようなもの (prizesworld.com)

最後に

 今回の記事はネガティブな意見をやや多く書いてしまった。それについて、作者、作者・作品のファンにお詫び申し上げる。この記事は書いてして気持ちのいいものではなかったし、読者側も読んで気持ちのいいものではなかったかもしれない。
 しかしながら、一読者として、作品に対する感想・批評を書くことは立派な文化活動であると私は信じている。そしてこの記事を書かなければ、この作品が「この世界に住む他者(女性)のためにこの小説を書いたのだ。」という結論に至れなかったと思う。ただ読んだだけでは、私は作者に対する一方的な、暴力性を含んだ批難を、頭の中で巡らせるだけだったように思える。
 書くということは、ある種、責任を持つことだと私は思う。私は私の言葉に責任を持つ。それが思考のままで終わってしまっては、その責任感は生まれない。また他人の言葉に乗っかるだけでも、責任感は生まれない。私はこの記事を書くことによって、また一つ責任を背負った思いだ。しかしそれは別に、哲学者サルトルが言うような悪い意味での責任ではない。文学という世界に足を踏み入れ、自分の意見を、誰が見ているかわからないような場所に投げ入れ、共同の場に参画する。それは厳しくもあるが喜ばしい責任だと私は思う。

 今後も不定期ではありますが、芥川賞受賞作品の研究・批評・感想を書いていこうと思います。引き続きよろしくお願いいたします。

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