『”それ”がいる森』を大怪獣のあとしまつと比較することの愚

映画を観るときのこだわり

映画作品を見るときは、出来るだけ映画館で見たいと思っています。

時間差で、自宅でAmazonPrime等を通して観る事を否定しません。
しかしそれは、旬を過ぎた野菜やお魚を素人が適当に煮込んで食べるようなものだと思っています。
リストランテで旬の食材をプロの料理人が調理した鍋の方が、同じ作品なのに味わいの絶対値が高いのです。

また、他人の評価を事前に浴びてから劇場に向かうのも好きではありません。
なので、可能な限り公開当日に行こうと考えています。

今は無職なので、金曜日にいちいち会社に有給申請しなくても封切り映画を見れるのは素晴らしい事。
無職は健康にも美容にも良いと確信しながら、目減りしていく預金口座を日々静かに眺めています。

タイトルの映画については、私は「Not for me」と考えて観に行くつもりはありませんでした。
映画館で観る予告ムービーから何一つ魅力を感じなかったからです。
特に、何か目新しいものは無いだろうという決めつけが私の中にありました。

しかし、状況を変えたのがこのツイートを見かけたときです。

私は、大変恥ずかしい事にサメ映画をまだ一度も観たことがありませんでした。
いい大人が、です。

サメ映画を観ていないともちろん、サメ映画が好きな女の子にモテないですし、上司がサメ映画好きだった場合の昇進にも響きます。
だからといって、最初に体験するサメ映画をサブスクでPCのモニターで適当に「んー、なんかシャーコーンってやるが有名なのか?」と観るのはもっといけません。初体験は上質に行きたいものです。

そんなところに、事実上サメ映画と認められる様な作品が今上映されていると気がつけたのです。
私はサメ映画とはどういうものかを実体験するために新百合ヶ丘のイオンシネマに即座に向かいました。

サメ映画とは

数時間後。
映画館を出た後の私は、サメ映画イニシエーションを済ませた映画鑑賞家へと変貌しました。
スクリーンでサメを観たことが一度もないのに、サメ映画とは何か?を完全に掌握した気持ちです。

全然嬉しくない。
この映画もはっきりいって、つまらない。
再度観たいとは思わないし、今後また別のサメ映画を観たいとも思わない。

だが、この作品は私の、映画を観る姿勢に新しい観点を与えてくれた。
この観点は実際のところは封印して二度と機能させたくないが、確かに自分の心の中にもう存在してしまった。

今まで自分は映画とは没入感を得ようと自分を操縦して観るのが正義であり、なおかつそれが一番楽しく味わえるものかと思っていました。
しかし、この作品はそうではなかった。

徹頭徹尾、『そうはならんやろ』という客観姿勢で、目と耳に入る情報を次から次へとハリセンでしばき倒すのが正解という作品でした。
今までもこういう作品と出会いキレ散らかして来たのかもしれませんが、これはちゃんと映画の冒頭から「そうやって観てね」というシグナルを送っていたのです。

サメ映画という概念が、その価値が。
私の映画人生を豊かにする訳では無いが、一応その、なんというか、『そういうものがある!』『世界は多様性に満ちている!!』みたいな微妙な満足感をほんのりと与えてくれました。

感想を読む楽しさ

映画を観終わったら、全力でTwitterです。
全身全霊でTwitterです。

孤独に映画を観ておきながらTwitterで感想を検索しない人間は、ちゃんと帰るべき家があり妻や子が待ち受けているような立派な人だけです。

見も知らぬ他者の声を、同じ映画の感想を呟いているというただ一点で仮初めの仲間意識を勝手に感じ、心の飢えを満たすのです。

しかし、私はここでさらに孤独を深めることになります。

大怪獣のあとしまつを引き合いに出しての否定

やって良いことと悪いことの区別がつかない人間が、凶悪な事件を起こします。
この映画のダメさを、大怪獣のあとしまつを引き合いに出して否定的に語るツイートが散見されたのです。

カタログ写真と全然違うゴミみたいな腐ったおせち料理が届いた事件と、酢豚にパイナップルが入っている事例を比較するようなものです。
あらゆる何かに冒涜的だ。

私は、この社会論調を許せない、許さない。
糾さねばならぬ。

あの映画で強いショックを受けて邦画に絶望し、フォローを外されミュートされるのもはかどりながら……リハビリを頑張ってようやく、毎日大怪獣のあとしまつへの怨嗟の声をツイートするような人格破綻者の瀬戸際から生還した私を……またそこへ突き落とそうというのか。

何が違うのか

幼児用のカレーを食べて「スパイスが足りない!」と海原雄山が吠えた場合、あなたは彼を嘲笑するでしょう。

しかし、店の前に立つだけで香辛料の匂いがむせ返り、メニューとその説明文には『超本格南印度北インド涅巴爾巴基斯坦死ぬほどスパイスワイワイカレー』とあり、満を持して注文したカレーが雑な幼児用カレーだったら怒りもします。

大怪獣のあとしまつは、シンプルに表現すればそういう『裏切り』です。
「本格的な怪獣映画なんか端から期待していないし、この監督が作る普段どうりのあのテイストの作品が食いたいんだ」
という一部の過激な人たちにとっては、受け入れられていますが。

では、"それ"がいる森に『裏切り』の要素はあったのか?です。
ありませんでした。

ちゃんと、プロモーションからして間違いなく面白そうでは無いですし、"それ"の正体も「あっ……ハイ」という程度の正体で、観ている人が「僕を裏切ったんですか!」と騒ぎ立てるようなものではありません。

なおかつ、親切にも序盤から主人公は独り言で様々な説明を不自然に行いますし、あらゆる演技や演出・脚本・カメラワーク全てに監督が意識して現場に「いいか?神は細部に宿ると言うが、この作品は逆を行く!!あらゆる細部に神を宿らせるな!!」という強い意思と現場の一体感が見える一貫した作りになっています。ちゃんと、貫いているのです。

「いや!裏切りはあった!」
「こんな映画をイオンシネマのような映画館で全国展開して良いものか!」
「"それ"が、裏切りと言える!」
そういう意見も、絞り出そうと思えば絞り出せるかもしれません。

しかし、それは日本の映画産業が他に優秀な作品を生み出せず、本来はマイナー映画館で全国11会場あたりで上映するのが自然な作品がこんな大きい展開にまで浮き上がらせてしまった『映画国力』の問題でしょう。

この作品が産まれたことに罪はないし、こういう作品も生み出されるのが表現の世界での豊かさと言えるし、それを人道に対する罪のような裏切りプロモーションで展開したわけでもない。
"それ"がいる森は、間違いなくイノセントと言えます。

デビルマンについて

私は恥ずかしながら、デビルマンも観たことがありませんでした。
当然、体感したくても映画館でリバイバル上映される気配はありません。

しかしながら、"それ"がいる森の評価をデビルマンと比べる旨のツイートも多く、仕方なく歴史資料を確認する姿勢でアマプラでデビルマンを観ることにしました。

頑張ったCGでした。
2004年という時期を考えると、間違いなく優秀でしょう。

それを全てぶち壊す、酷い脚本でした。
漫画版を読み込んだ人にしか、ストーリーを補正出来ません。

それを補強する、最低な演技でした。
役者としての能力が無い人間を主役に起用決定した人間は、人の心を失ったデーモンそのものだと思えました。

演出については「あっ……ここ好き」という場所が何箇所かあったのですが、「いや、監督さん……?これこのままOKしちゃうの?」みたいな場所も多々あり、スタッフの個人の頑張りも殺されている様子が伺えます。

人気のタレントをチョイ役にいれて話題性を取ろうとしているのが演出として滑っているのかどうかは判断できませんでしたが、そんな遊びを入れてくる程度にいろいろと客寄せ施策は打っているんだと感じます。

作品について総じて言えば、それくらいのものです。
併せて、当時のプロモーション動画も確認しましたが……
これはカッコイイ。
ボロが出ないように、期待感を高められるシーンだけを上手く編集したまさに悪魔の所業です。

この映画を、史上最低の映画のように声高に叫んで良いのは
・漫画版デビルマンの熱心なファン
・プロモーションで期待アゲアゲになっていた
・劇場で公開期間中に、悪い噂を聞く前に見た
の3条件を満たした人くらいでしょう。

品質が低い、品質が低すぎる、というだけで。
あらゆる角度で観劇者を裏切ったとするには言えない程度の駄作ではないでしょうか。

Twitterに無数に蠢く、「実写版デビルマン最低論」ですが。

彼らはもっと、ふらりと寄ったミニシアターとかで「感動巨編」とされるなんか若い監督が勢いで作った映画やを1900円払って何本も観てみたらどうでしょうか。
もしくは、小劇場でも良いです。
本当の絶望と失望を味わってほしい。俺と同じ気持ちになってくれよ。

論ずるに値しない、タイトルさえ記憶に残らない残したくない、心に脳にただじんわりとした空虚が沁みる作品。
名前が残るクソゲーより、誰にも話題にもしてくれないゲームソフトのほうがキツいのは映画も同じなのです。

まとめ

『"それ"がいる森』は、みんな劇場でやっているうちに観たほうがよい

これは、日本映画界にはこれまで確立されていなかったスタイルを根付かせる可能性がある。

この作品はちゃんと笑える

虚無にはならない。
確信犯としての雑さ、酷さ、品質の低さがあり、そこを積極的に笑う姿勢でキャッチすれば明日も笑顔で生きていける。

ダメさのベクトルが違う

駄目な邦画が放つ「あっ!もうダメだこの映画は」というじっとりとした嫌な汗は流れない。
古い特撮作品を見たときの背中のチャックやピアノ線を「よさみ」に昇華して、新しい観劇スタイルをインストールする最大のチャンス。

大怪獣のあとしまつと比較している人は何をやっても何をやらせてもダメ

大怪獣のあとしまつと比較している人は何をやっても何をやらせてもダメ

令和のデビルマンとか言っている人は、映画の素人

何かにつけて実写版デビルマンを引き合いに出して評価しようとする人は、自分の言葉で評論する能力が無い人。
実写版デビルマンにもそれがいる森にもまともに向き合えていないし格闘もしていない。

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