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#20 What a wonderful world(5/5)

  重い足取りのまま病室を出た。エレベーターの下りボタンを押すと、一階で停止していた一台が動き出した。次々と点いては消える階数を示す数字を眺める。きっと今の自分に義母の不安を拭うことはできない。代わってあげることもできない。せめて再検査の結果が良好であるよう、心の底から祈るだけだ。
 エレベーターが五階に到着し、ゆっくりと扉が開いた途端、思わず息をのんだ。中に元夫がいた。向こうも同じ状態だったようで、私たちはお互いの顔を見合ったまま動けずにいた。
「来てたんだ」
「うん。でも今帰ること」
「お袋は?どんな感じ?」
「元気だけど、ちょっと不安がってる」
「そうか」
「入院してるんだもの、当然だと思うけどね」
「そうだな。ありがとう、来てくれて」
 本当に久しぶりに目にする元夫の姿。柔和な顔立ちは相変わらずだ。この人に今の自分はどう映っているのだろう。ふとそんなことを思う。
 そのとき、元夫の後ろにいる女性に気付いた。その女性は元夫に何かつぶやくと、私を一瞥してその場から離れ、病室の方に歩いて行った。その一瞬だけ注がれた視線で、私は全てを悟った。
「ねえ、あの人と付き合ってるの?」なぜか声を潜めがちに聞く。
「ああ。まあね」そう答える声もどこか控え目だ。
「そうなんだ。綺麗な人じゃない」
「そうかな」
「ま、私には敵わないかもしれないけどね」
 そう言うと、元夫は照れたように何度かうなずいた。
「ところで君は?」
「私?」
「新しい恋人はまだなのかい?」
 少し考えるふりをして、小さく首を振る。
「そうか。楽しみは先送りか。……元気でな」
「あなたもね」
 元夫は扉が閉まるまで見送ってくれた。今日に限っては、その優しさがほんの少しだけ疎ましい。
 狭く無機質な箱の中に一人。壁にもたれかかり、大きなため息をつく。哀しさと寂しさが入り交じる。でもその原因が何か今は知りたくない。

*****

 この週末はずっと雨が降り続いている。たまに空が明るくなってきたと思うと、次の瞬間にはもうご機嫌斜めだ。太陽が恋しい。日の光を目いっぱい浴びて、心の中を大掃除したい。
 いつものようにCDをプレイヤーに滑り込ませる。すぐに「What a wonderful world」が部屋の隅々まで満ちていく。いつもであれば穏やかな気持ちになれるのに、今日はそうでもない。別にいつもと変わらない日曜日の朝なのに。朝食の準備は出来ている。耳に響く旋律も心地よい。それでも私の心は、初めて留守番を任された子供のように落ち着かない。
 ソファに座り、全身を投げ出すように大きく伸びをした。指先からつま先までの全ての筋肉がゆっくりとほぐれていくようだ。そのまま天井を見上げていた。そこに病院で見た元夫の恋人の顔が浮かんだ。私よりも若い。恐らく25か6歳くらい。いつから付き合っているのだろうか。二人で見舞いに来るということは、結婚を考えているかもしれない。そう言えば、いつからロングヘアが好みになっただろうか。自分の髪に指を通す。短い私の髪ではすぐに手応えを失ってしまう。
「何だか、私だけが一人だ」
 雨音と私の声が、手を繋ぎながら床にはらはらと舞い降りる。

 チャイムの音で我に返った。今日も彼はやって来た。いつもより15分遅れ。時間に正確な彼にしては珍しい。
「遅くなっちゃった。雨のせいか、道も混んでて」
 玄関先で傘に着いた水滴を軽く落としながら彼が言った。歯並びのいい、いつもの爽やかな笑顔だ。
「早く入って。もう準備はできてるから」思いのほか、いつも通りの声が出る。
 今日のメニューは、秋刀魚の塩焼き大根おろし添え、ほうれん草のお浸し黒胡麻和え、蕗とさつま揚げの甘辛煮、豆腐と長葱の味噌汁、そして炊き立てのご飯。
「すげえ。今日は思い切り和食だね」
「でしょ。こういうのもできるってこと見せておかないとね」
「随分、早起きした?」
「君はそんなこと気にしなくていいの。座って」
 そう言いながら、私たちはいつもの席に着く。
 彼は頼もしいほどの勢いでテーブルに並んだ食べ物を頬張る。そして繰り返される咀嚼。私はそんな彼の姿を眺めている。微妙でありながら様々に変化する表情を一つも見逃したくない。
「ねえ、美味しい?」
「もちろん。正しい日本の朝ごはんって感じ」
「でしょ。気合入れて作ったんだから。もっと食べる?」
「そんなに急かさなくても。まだ大丈夫」
「だよね。……あのさ、」
 何故このタイミングなのかは分からない。私の中にある湖に小石が投げ入れられた。落下点を中心に波紋が広がっていく。普通に考えれば、こんな小石で出来た波など大したことはない。放っておけばやがて元に戻る。しかしそんな誰にでも解る物理法則に逆らい、波紋は確実に高くなる。湖面がうねり出し、高波となり、鋭い眼光で私を湖底へと飲み込もうとしている。
「この前、私の母校の大学で講演する仕事があってね」
 声が少し上ずっているのが分かる。テーブルの上で手を組み、落ち着きを取り戻そうとした。彼は蕗を口元に運びながら、「それで?」といつも通りの軽い相槌を打つ。
「久しぶりに大学に行くと新鮮だったな。昔から残っているところと新しくなったところとが混じり合ってって」
 徐々に核心に近づいていく。もう後戻りはできない。このままでいると、高波に溺れてしまいそうだ。これが正しい選択でなかったとしても、私は進むしかないのだ。この快適で平穏な彼との時間の中で窒息したくない。
「見かけたよ、君を」
「……」
「メインストリートの医学部の前辺り。あそこの学生だったんだね。私の後輩じゃない。それでね、私が歩いている向こう側から君が来たの。友達と一緒に楽しそうに話しながら。君の横にいた女の子、あれはきっと恋人よね」
「ねえ、どうしたの?」
「そのときにね、」私は彼の困惑したような声を聞き流す。鼓動が不規則なリズムを刻んでいた。
「君は私のすぐ横を通り過ぎて行ったの。一度も目を合わさずに。無視されたのかなって思った。それってどうしてかな。本当に気付いてなかった?」
 彼は何も答えずにキッチンへ行き、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルとグラスを持ってきた。そしてグラスにミネラルウォーターを注ぐと、一気に飲み干した。
「それだけじゃないの。私たちってお互いのこと何も知らないよね。半年もこうしてるけど、名前だって知らない。今まではそれも面白いなって思ったけど、やっぱりこれって不自然だよね。そう思わない?だからね、今更って気もするけど、この辺でお互いに自己紹介するのはどうかな。それぐらいしたところで、都合が悪いこともないと思うんだけど」
 一気にしゃべって少し疲れた。今度は私がミネラルウォーターを飲む番だ。彼が使っていたグラスを手にした。彼はやはり何も言わない。箸はテーブルに置かれたまま、自分の役割を忘れている。
 鈍く重い空気がまとわりつく。長い沈黙が続く。雨音だけがいつまでも途切れることなく耳に届く。
 そのとき、彼が大きく息を吐いた。身体の中にあるもの全て出してしまうかのようなため息だった。そして立ち上がると「帰るよ」と言った。
「どうして。まだこんなに残ってるよ」
「実は和食は苦手なんだ」
……そんなの嘘。それが分からない程、私は子供ではない。
「そうだったんだ。それならそう言ってくれたらよかったのに」
「ごめん」
 そう言いながら彼はどことなく重い足取りで玄関に向かう。私はその後を付いて行く。いつもの見送りの様子。次の日曜日へ繋げるための儀式。
「来週のリクエストは?和食以外で」
「ちょっと思いつかないな。それじゃこれで」
「うん。……気を付けてね」
 
 テーブルにはいくつものお皿がそのまま置いてある。中身の残り具合で、改めて彼との時間がいかに短かったのかを知った。部屋の中に浮かぶ彼の名残。しかしそれは今までとは違い、どれもがすっかり冷え切っていた。
 すぐに食器を洗う気になれず、私はソファに身を沈める。これできっとデットラインを越えてしまった。彼が私の問い掛けに答えなかったことや、早々に帰ってしまったことは、これからの二人の関係を明確に示しているような気がした。
 
*****

 それから一週間、何事もなかったように時は流れた。
 彼にルール違反の提案をして以来、身体中の力が抜けてしまったようだ。ほとんどの時間をソファの上で過ごし、窓から交互に差し込んで来る光と闇をただ眺めていた。何もする気が起こらなかった。仕事も手につかない。新聞も読んでいないし、ネットも繋いでいない。スマートフォンを手にすることすらしていない。最近、世界で何が起こったのか何も知らない。こんな状態になってしまったことに、自分自身が一番驚いている。
 そして今は日曜日の午前中。既に二人分の朝食の準備が出来ている。
 トースト、ボイルしたソーセージとカリカリに焼いたベーコン、フルーツサラダ、そしてカフェオレ。手間をかけた先週が嘘のようにいたってシンプルなメニュー。いつの間にこんなことしたんだろう。私の中の時間の配線があいまいだ。
 彼が来るかはかなり微妙だ。先週の彼の帰り際の困惑した表情を思い出す。ドアの閉まる音がいつもより大きかった気がする。一週間が経っても色褪せない記憶。そこに私を楽観させてくれるものはない。
 着信音が私を呼ぶ。しばらく素通りさせていたが、そのうちにいくつかが鼓膜の端にしがみついてくる。いつもの編集者からではない。そんな思いが頭をもたげる。久しぶりにスマートフォンを手にして、画面を確認する。
「……もしもし」
「僕だけど。今、大丈夫?」
「うん、いいよ」
「最近、忙しかったのかい?何度か電話したんだけど留守みたいだったし」
「大丈夫。元気にしてるよ」
 そこまで言うと、思わず吹き出してしまった。
「どうかした?」
「ううん。まだそんなふうに気を使ってくれるんだなあって思って。新しい彼女がいるっていうのに」
「止してくれよ」
電話越しに元夫が微笑んでいるのが分かる。
「それでどうしたの?何度も電話したって言ってたけど」
「あ、そうそう……、」元夫の声が少し神妙になる。
「お袋のこと。再検査の結果が出たんだ」
「お義母さんの?それで?」
「幸いにも良性だったよ。明後日には手術だって。とりあえず命に別状はないってさ」
 再び身体の力が抜けた。しかし先ほどまでの脱力感とはまるで違う。
 義母は無事だ。もうしばらく入院は続くだろうが、しかしそれは生に直結している。私の中にじわじわと安堵感が広がる。全ての淀みを浄化する、清らかな感覚だった。涙があふれた。
「と言うことだから安心して。またお袋に顔見せてやってよ」
 気持ちが込み上げ、元夫の言葉になかなか答えることができなかったが、ようやく「でも今度行くときは前みたいに鉢合わせするのゴメンだからね」と言った。それを聞いた元夫の笑い声。少しずつその場の空気が和んでいるのが感じられた。
 電話を終えて一人になる。今すぐにでも義母に会いたい気分だった。元気になったら今までのように、否、今まで以上に楽しく話せるはずだ。きっとそうなる。もう以前の関係ではないが、その分だけ仲の良い友人になろう。それはとても発展的な関係の転換だ。そしてこれからも彼女は私の憧れの女性であり続けるのだ。そのとき私は聞いてみたい。彼女にとっての素晴らしい世界はどのようなものであるかを。

 チャイムが鳴る。
 驚いて時計を見るといつもの時間。慌てて私は外を確認する。フワフワと綿のような雲が、遥か遠くでのんびりと浮かび、自分の行くべき方向を風に任せている。
 今日は朝食の後、彼を中央緑地公園に誘ってみよう。
 そう思いながら、私はやや早足で玄関へと向かう。

(おわり)

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