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#17 What a wonderful world(2/5)

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 いつの間にかソファの上で眠っていた。外は夜の帳に包まれており、窓ガラス越しに街灯の光がほのかに見える。私の細胞はまだ目覚め切ってはいないようで、目は開けているが起き上がらずにしばらくぼんやりしていた。スマートフォンの着信音が私を必死に呼んでいる。そうか、私はこの音で起きたのか。
「……はい」
「僕だよ。もしかして寝てた?」
「ちょっとね」
「今、大丈夫?」
「うん」
 二年前に別れた元夫からだった。離婚後は顔を合わせることはほとんどないが、こうしてたまに連絡が来る。
「仕事の調子はどう?」
「まあまあって感じかな。……あなたは?」
「多少難あり、と言っておくよ。だから君の声が聞きたくなってさ」
「相変わらず調子のいいこと言って」
「僕は正直に言ってるだけだよ。今の本当の気持ちをね」
 スマートフォンを通して、二つ年上の元夫の甘い声が鼓膜を刺激する。
 別れたと言っても、別にお互いが嫌いになったわけではなかった。二人の自由な生き方を尊重しよう。何度目かの話し合いの末にそんな結論に達したのだ。子供もいなかったし、財産分与の件でもめることもなかった。不適切な言葉ではあるけれども、ほぼ理想的な別離と言えた。
 私はキッチンに行き、冷蔵庫からハイネケンを取り出し、そのまま一口飲んだ。喉の奥にビールが心地よく流れていく。ハイネケンはその缶の色のせいか、大地の恵みを思う存分に吸い込んだ草原の味がする。
 それから少しの間、私と元夫は黙っていた。言葉を失ったというよりは、電話越しに伝わる、お互いの微かな息遣いを聞いているようだった。
「ところで君、新しい恋人は出来たかい?」
「まさか。恋愛なんてしている時間はないよ。仕事も忙しいし、それに……、そのためにあなたと別れたんだし」
「そうだよな。すっかり売れっ子作家だね」
 相変わらず元夫の声は静かながらも優しさに満ちていた。出会ったばかりの頃、私はこの声にすっかり恋していた。まるで滑らかに流れる大河のような雄大さを感じていた。その流れに包まれた私の結婚生活は、ある意味とても幸せな時間だった。
「それじゃ、今は一人かい?」
「そうだよ。……一人」
「……」
「どうしたの?黙っちゃって」
「……これから、行ってもいいかな」
「今から?」
「都合悪い?」
「そういうわけじゃないけど……」
 視線が部屋中を忙しなく動く。殺風景なリビング。テーブルの上には書きかけの原稿とパソコンが乱雑に置かれていた。キャップの外れた赤のボールペンが、無意味な方向を指している。
「ダメってわけじゃないんだけど、今ちょっと立て込んでるの。締め切りが近くって。……だから、今日は無理かな」
「そうか。それじゃ仕方ないね」
「ごめんね」
「いいよ。仕事、頑張って」
 それからとりとめのない話を少しした後、どちらからともなく「おやすみ」と言い、私たちの会話は終わった。同時に部屋の中に沈黙が戻る。私は途中だったハイネケンを一気に飲み干した。どうして立て込んでいるなんて嘘ついたんだろう。そんなことを考えながら空き缶をごみ箱に捨てた。

*****

 自宅の近くに公園がある。中央緑地公園という名前のその公園は、街中に位置しているにもかかわらず、かなり広い敷地を持ち、野球場やサッカー場、テニスコートや体育館などの施設がある。中央緑地公園と言うだけあって緑が豊かで、市民の憩いの場所となっている。
 私は頻繁にここを訪れる。ここで深呼吸をすると本当に気持ちがいい。気分転換をするにはうってつけだ。特に雨上がりの午前中なんかは。葉の先に水滴がまだ残っていて、それが太陽の光を浴びてキラキラと光っているのを目にすると、自分は今、世界で最も美しい瞬間を目の当たりにしていることを確信できる。だから小雨が降る夜は、ほのかに心が湧き立つのだ。次の日の朝がとても待ち遠しくなる。
 今日も木々の緑が都会の淀んだ空気を浄化し、騒音をかき消してくれた。この公園の中にいると、異空間に迷い込んだ気にさえなる。
 私はベンチに座って、柔らかいマシュマロのような日の光を全身に浴びた。この光が私に栄養を与えてくれる。血液の流れが活発になり、身体がポカポカと温かくなってくるのだ。周りではジョギングをしている老人がいる。手を繋いで散歩している母子がいる。ベンチに座って語らう大学生風の若いカップルがいる。いつもと変わらない公園内の風景がそこにあった。
 少し離れた場所でサックスを吹いている男性がいた。それほど上手な演奏ではなかったが、しばらく聞いているうちに曲名が分かった。「What a wonderful world」だった。
 この素晴らしき世界。確かにその通りだと思う。ここでこうして清々しい空気を吸っていると、不安や不満はまるでこの世に存在しないかのような錯覚に陥る。私を含めて、ここにいる大半の人が、自分の命に限りがあることなど忘れているかもしれない。無意識に永遠の生を信じ、今を生きている。
 男性はまだ演奏を続けている。たしかあの曲が入ったCDを持っているはずだ。帰ったら探してみよう。やや不安定な音色を聞きながら私は思う。
「……美也子さん」
 声の方向に顔を向ける。私から見て右側の少し離れたところに義母が立っていた。正確に言うと元義母だが、私の中では今でも彼女は義母だ。いつ来たのだろう。目をつぶっていた訳でもないのに。
「お義母さん、どうしたの?」
「ちょっと近くまで来たものだから。マンションは留守だったから、きっとここだと思ったの」
 オレンジ色のブラウスが緑の中で映える。義母は私にとっては憧れの存在の一人だ。還暦を過ぎているが、常に若々しい空気を身にまとっていて、一緒にいると穏やかな気持ちになる。
「それで、今日はどうしたんですか?」
「ええ、ちょっとね。……ねえ、そこに座らない?」
 私たちは近くのベンチに並んで座った。
「元気だった?」 
 私は小さくうなずく。彼女に会うのは離婚してから三回目になるだろうか。元夫と会うことはないが、義母とは細々ながらもこうして交流が続いている。折り合いが悪かったことなど一度もない。むしろ私たちの関係はずっと良好のままだ。
「おかげさまで、元気にしています」
「忙しくしてるんじゃないの?」
「それなりに。忙しくしてないと食べていけないから」
「そうよね。頑張っているに決まってるわよね」
 義母は静かにそう言った。私はそんな彼女の柔らかな横顔を眺めている。義母が予告なしに訪れるのは珍しい。私がまだ元夫と一緒に暮らしていた頃、義母が部屋に来ることは何度かあったが、そのときも必ず前もって連絡が来てからだった。整理整頓が苦手な私を気遣ってくれていたのだろう。
「最近、誠一とは連絡を取ってるの?」
「たまにです。この間、電話で話しました」
「そう。……ごめんなさいね、美也子さん。あの子のわがままでこんなことになって」
 なぜかは分からないのだが、義母は私たちが離婚したのは、自分の息子のせいだと思い込んでいた。自らにも責任があると感じているのか、会うとこうして私に謝ってくる。
「いいんですよ。二人で決めたことなんですから。だからお義母さんが気にすることなんて全然ないんです」
「本当にそう思ってくれてるの?」 
「ええ、もちろん」
「ありがたいわね。……本当にありがたい」
 義母が誰に言うでもなくつぶやく。どことなく年老いたというか、小さくなったような気がした。今日のこの日差しに溶けてしまうような、そんな印象を受けた。
 それから私たちは黙って座っていた。全身を緑に浸しながら、義母の次の言葉を待つ。彼女は少し顔を上げ、目を閉じていた。目尻に数本、深く刻まれた皺が見えた。私たちの前を、自転車に乗った高校生が横切っていく。
「ねえ、これ何ていう曲?」
「ああ。What a wonderful worldです。あんまり上手じゃないけど」
「と言うことは、日本語だと『この素晴らしき世界』ね。素敵なタイトル」
 義母は目を閉じ、穏やかな表情を変えない。そして「やっぱり演奏は下手ね」と言った。彼女の言い方のどこか間の抜けた感じが妙に面白くて思わず微笑んだ。私の笑みを見て、義母も微笑んだ。
「さ、そろそろ行かないと」
「もうですか。何かお話があったんじゃ」
「いいのよ。また今度で。今日は美也子さんの顔が見られただけでも充分」
「またいつでもいらしてください。大抵、部屋かここにいますから」
 義母は柔和な笑みのまま、背を向けて歩いて行った。小さな背中が木々の緑に吸い込まれていくようだった。私はそんな義母の後ろ姿を見えなくなるまで見送っていた。

(つづく)


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