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#15 姉と私とひこうき雲と ep.4

 長い職員会議が終わり、私はその場で大きく伸びをした。固まっていた身体がゆっくりとほぐれていく。時間を確認すると19時になろうとしていた。もうこんな時間。何度も経験している苦々しい思いがこみ上げた。議題の中には全体で話し合うよりも数名の担当を決めて進めたほうがいいものがたくさんあるし、それでかなり時間を節約できるのだが、ここでは情報の共有という名目で全員で話し合わなければならない。なんと非効率な作業だろう。
 教師になりたての頃に、疑問という形で先輩教師にそれとなく聞いたことがある。その先輩教師はすぐに校長に掛け合ってみると言ってくれた。しかしそれっきりだった。いつまで経っても会議は長いままだし、効率化を図る動きも見られなかった。私としては特に絶望するほどでもなかった。自分が何か発したところで変わるはずがないと心のどこかで思っていたのかもしれない。強いて変わったことをあげるとすれば、一部の同僚から生意気な奴とのレッテルを貼られたぐらいだろうか。
 外はすっかり暗くなっている。お腹も空いた。しかしまだ帰るわけにはいかなかった。定期テストが終わったばかりなので、その採点をしなければならない。会議でも可能な限り素早く答案を返却するようにと言われたばかりだ。時間割を確認して、採点するクラスの順番を決めた。
 そうだ、麻衣ちゃんに帰りが遅くなることを言っておかなきゃ。私はスマホを手にする。職員会議の間にメッセージが3件届いていた。1つは公哉君から。来週から出張が決まったらしい。返信は帰ってからゆっくりやればいい。それから以前使用したことのある通販サイトから宣伝。これは即削除。そして最後の1件は麻衣ちゃんからだった。

「出かけて来るから。今日は晩ご飯はいいや」

 珍しいこともあるものだと思ったけれど、どことなく私には腑に落ちた。きっと麻衣ちゃんは裕之さんと会うのだ。私が知る限り、二人が会うのは麻衣ちゃんが家を飛び出してから初めてだ。そこで二人のこれからについて話すのだろう。離婚するのかしないのか、そもそもこうなってしまった原因は何なのか。この際だから徹底的に話し合えばいい。多少ヒートアップしてもいいから、お互いの思っていることをぶつけ合えばいいのだ。きっとその向こう側に二人だけの答えが見つかるだろうから。
 とりあえず私は「分かったよ」とだけ返信して、それからはテストの採点に集中した。答案用紙の上を赤いペン先が滑らかに踊る。ああ、また酸化数を間違えてる。何度言ったら分かるのかな。……ほらもう、これは酸化剤じゃなくて還元剤だって説明したでしょ。……あ、すごい。やれば出来るじゃない。
 今夜は私からは何も聞かないでおこう。心の中でそう決めた。きっと麻衣ちゃんがちゃんと話してくれる。

 終電の時間を過ぎても、麻衣ちゃんは帰ってこなかった。
 数分おきにスマホの画面を確認するも連絡はない。しかも私が送ったメッセージには既読すら付いていなかった。どうしたんだろう。いつもならちゃんと返事が来るのに。何かあったのだろうか。事故か事件に巻き込まれたとか、裕之さんとの話し合いがこじれて自暴自棄になったとか、それとも……。ここで思考が止まる。バカバカしい。どうしてこんなにソワソワしているんだろう。麻衣ちゃんだって充分過ぎるほど大人なのだ。帰りが遅くなることだってあるだろう。電車がないならタクシーに乗ればいいし、裕之さんとの話がいい方向で盛り上がったのなら今夜は帰ってこないかもしれない。だとすると私は久しぶりにこの部屋を独占できる。何の気兼ねもなく過ごすことができる。
 何か口にしたくて冷蔵庫を開けた。真ん中辺りに麻衣ちゃんが買ってきた三本の缶ビールが置かれていた。麻衣ちゃんは缶ビールを買うと必ず同じ場所で冷やす。そこが一番よく冷えるのだと言うのだが、本当にそうなのかは分からない。私はその横にあるグレープフルーツを手にする。これにしよう。そう思った途端に、口の中が果汁の味を思い出した。

 実は私は体質的に人と大きく異なる点がある。
 柑橘系の果物を食べると汗をかくのだ。アレルギー反応だろうか、顔周りが主で、大抵は鼻から始まって徐々に身体が温かくなり、やがて玉のような汗が吹き出てくる。だからグレープフルーツを食べるときはタオルが必須だった。それは子供の頃からそうで、具合が悪くなるわけでもなかったので、それが普通だと思っていた。しかしその「普通」に鋭く楔を打ち込んだのが麻衣ちゃんだった。私が中学1年生の頃だったと思う。両親が出かけていて、私と麻衣ちゃんで留守番をしていた。

●●●●●

「美幸ちゃん、グレープフルーツ食べる?」
 私が宿題をしていると、麻衣ちゃんが声をかけてきた。ちょうど区切りも良かったので、そそくさと机の上を片付けてリビングへ向かった。テーブルの上には程よく色付いたお日様のようなグレープフルーツが二つ。ほんの一瞬、勝手に食べて大丈夫だろうかと思ったが、どうせ麻衣ちゃんにその意見が通用するはずもない。
 二人でグレープフルーツの皮を剥く。麻衣ちゃんは私よりずっと不器用だから、どんどん仕事量が偏っていく。最終的には私一人の作業となる。
「何だかね、美幸ちゃんが剥いたほうが美味しい気がするのよ」
 そんなことを言いながら、果肉の一片をつまみ食いした。
 グレープフルーツは美味しかった。噛むたびに果肉の小さな粒が潰れて果汁が広がっていく。酸味と甘みのバランスが絶妙で、いくらでも食べられそうな気がした。
「あんた、どうしたの?」
 気がつくと、麻衣ちゃんが不思議そうに私を見ている。
「もしかして具合でも悪いとか?」
「ううん。何で?」
「汗かいてるじゃない」
「だって、グレープフルーツ食べてるし」
「何でグレープフルーツ食べたら汗かくのよ」
「だって食べたら汗かくでしょ」
「だから何でグレープフルーツ食べたら汗かくのよ」
「だって……、え?」
 その途端、麻衣ちゃんが大声で笑いだした。しかもそれはどこか人を小馬鹿にしたようなニュアンスを多分に含んでいた。当然、私の機嫌は悪くなる。だってグレープフルーツを食べていたのだから汗をかくのは当然ではないか。それを笑われるのは納得がいかない。だって麻衣ちゃんだって……。あれ?汗をかいてない。どうしてそんなに涼しげな感じなの?
「あのさ美幸ちゃん、それかなり変だよ」
 その一言で、今までの私の常識の一つが崩れ去った。
 両親が帰宅するなり、麻衣ちゃんはそのことを伝えた。当然と言うべきか両親は驚くやら、感心するやらで、いずれにせよ私だけが特異体質であると結論づけられた。こちらとしては釈然としない。それまでずっとグレープフルーツは汗を拭きながら食べるものだと言うことに何の疑問も抱いていなかったのだ。しかし家族は総出でその概念を粉々に砕いた。思春期と言うこともあり、そのとき感じた恥ずかしさや悔しさをどう処理するのか分からず、ふて腐れ、辺り構わず八つ当たりした。それでも家族は笑っていた。
 普通であればこのエピソードはこれで終わる。しかしここからが麻衣ちゃんの真骨頂と言うか、らしさが全開されるのだ。数日が過ぎ、麻衣ちゃんは膨らんだレジ袋を手にして学校から帰ってきた。そして私を呼ぶと、「ちょっと付き合ってよ」と言った。何だろうと思っていると、麻衣ちゃんはレジ袋の中身を取り出した。私から見て左からミカン、オレンジ、レモン、グレープフルーツを順番に並べた。
「さ、こっちから食べて」
「どうして?」
「いいから。お願い」
 まず麻衣ちゃんはミカンの皮を剥き、「はい」と差し出した。笑顔の向こうにある有無を言わさぬ雰囲気に圧され、私はミカンを口にした。
「……どう?」
 何の変化もない。身体が暑くなるわけでもないし汗も出ない。
「何ともないみたい」
「なるほどね」
 麻衣ちゃんはいつの間にか用意していたノートに『ミカン、なし』と記入し、「それじゃ次はこれ」と隣のオレンジの指した。
 ここで私は全てを理解した。麻衣ちゃんは私がどの柑橘類を食べれば汗をかくのか実験しているのだ。これは自分の妹を使った人体実験ではないか。何と理不尽な行為だろう。先日あれだけ私を辱めたにも関わらず、まだそんなことをするなんて。しかし麻衣ちゃんは真剣な表情で「大丈夫?」とか、「汗は?」とか聞いてくる。もちろん、私の身を案じてではない。突如として湧き出た探究心がそう言わせているのだ。
 そうしているうちに、私も自分がどんな体質なのか知りたい気持ちになっていた。正に麻衣ちゃんの思う壺だ。果実を食べ、自分の身体と対話する。二人の表情が自然と険しくなる。ここまでくると麻衣ちゃんの役に立ちたいとまで考えるようになっていた。
 こうして私は麻衣ちゃんの巧みな導きのおかげで全ての果実を食べた。レモンとグレープフルーツで汗をかくという結果となった。既に髪の毛まで汗まみれだ。早くTシャツを着替えたいと思った。麻衣ちゃんは宇宙の心理でも発見したような表情でノートを見つめていた。
「なるほどね。つまりは酸味が強いとそうなるってことか」
「ふうん」
「美幸ちゃん、これすごいよ。次の自由研究のテーマにしたら?」
「絶対に嫌」
 近くにあったクッションを手にして、麻衣ちゃんめがけて思い切り投げた。

●●●●●

 もうすぐ午前2時。普段はこんな時間まで起きていることはほとんどない。今すぐにでもベッドに飛び込みたいところだが、まだ麻衣ちゃんは帰ってこない。
「どうしたんだろ」
 部屋を独占出来るとはいえ、考えてみれば特に一人でしたいことなんてない。読みかけだったミステリーも先に読んだ麻衣ちゃんに犯人の名前を暴露されてしまったし、私が唯一やるRPGもパスワードは麻衣ちゃんしか知らない。一人で飲むほど酒好きでもない。どうしよう。……あれ、この部屋ってこんなに広かったっけ?   
「あーあ、退屈」
 そんな単語が自分の口を衝いて出た。それから妙に腹立たしくなった。明日も仕事なのに、こんな時間まで起きているなんて馬鹿げている。もういい。寝よう。シャワーを浴びようとしたそのとき、ドアのチャイムが鳴った。私は小さなため息をつき、玄関に行って鍵を開けた。
「美幸ちゃん、ただいま。まだ起きてたんだね」
 人に鍵を開けさせといてそんな言い方もないと思ったが、それでも帰って来たことに安堵感を覚える。ほの暗い明かり越しだが、麻衣ちゃんの頬はまだほんのりと赤い。
「随分とご機嫌ね」
「そりゃそうよ。久しぶりだったからね」
 この様子だと話し合いはスムーズだったようだ。返信する間もないほど有意義な時間を過ごしたのだ。それはそれで良かった。……うん、良かった。
「だって卒業以来だもん、会ったの」
「え?」
「だから卒業以来だったの。10年以上経ってる」
 どうも話が噛み合わない。麻衣ちゃんは何を言っているのか。
「ほら加奈子って会ったことあるでしょ?」
「うん」
「彼女ね、離婚したんだって」
「……」
「もうビックリ。原因は旦那の浮気。ひどいよねえ」
「麻衣ちゃん、加奈子さんと会ってたの?」
「そうだよ」
「裕之さんじゃなくて?」
「は?会うわけないでしょ。変なこと言わないでよ」
「……」
「ねえ美幸ちゃん、悪いんだけどビール持って来てくれない?」
 半ば放心しながらビールを渡す。何だかもう訳が分からない。私は麻衣ちゃんが旧友と楽しんでいる間、眠たい目を擦りながらただ不毛な時間を過ごしていた。連絡がないから心配だったし、裕之さんと会っているならその結果も知りたかった。それはこれからの私の生活にも直結するからだ。しかしそれは丸っきり無駄だったようだ。もちろん全面的に私の勘違いなのだけれど、それだけに勝手な怒りと恥ずかしさで気持ちが乱れる。この気持ちのやり場はどこにもないのが分かっているだけに余計厄介だ。とにかくもう何も言うまい。今夜はこのまま寝よう。このことで少しでも構われたら逆上してしまうかもしれない。結論。麻衣ちゃんは裕之さんとは会わなかった。まだこの生活が続く。それが分かっただけで充分だ。お願い、とにかくそれ以上私に触れないで。

「あれ、美幸ちゃんグレープフルーツ食べたの。珍しい。ねえ汗かいた?」

 そのあと私がどうなったのかはもう忘れた。ただ後日、マンションの管理会社から『深夜は静かにするように』と丁寧なお手紙が届いた。(ep.4了)

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