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#18 What a wonderful world(3/5)

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 またいつものように、日曜日がすました顔をしてやって来た。私はいつもより少しだけ早起きし、キッチンに立つ。日曜日の午前中だけやって来る、あの彼のために朝食を作るのだ。
 この半年間、欠かすことなく日曜日の朝食を一緒に取っていたにもかかわらず、私は未だに彼の名前も連絡先も知らない。分かっていることは、私よりずっと年下だということ。笑顔が子供っぽくてかわいらしいということくらい。それは彼にしても同じようで、ただここの住所を知っている点、私が物書きらしいと感づいている点で多少は詳しいといえるかもしれない。今更お互いの素性を聞くのが気恥ずかしいという気持ちが感じもないわけではないが、どちらかというと一種のゲームを楽しんでいる感覚に似ていた。各々の個人情報には一切触れずに付き合うゲーム。希薄な人間関係をどこまで維持できるかを楽しんでいるといってよいかもしれない。
 朝食の準備をしながら、私は彼の食事中の姿を思い出している。大きく口を開け、食べ物をどんどん胃の中に放り込む様は微笑みを誘う。
 彼はいつも何かに急き立てられているかのように食事をする。まるで減量の苦しみから解放されたボクサーのように。そのうち喉を詰まらせはしないかと、こっちがハラハラする。
「慌てないで。食べ物はお皿から逃げて行かないよ」
 私がたまにそんなことを言うと、「育ちが悪いのかな」と冗談めかした返事が返ってくる。そんなときはいつもきちんと整列した白い歯が見えた。

 食事の準備が一段落ついた。後は彼が押す部屋のチャイム音を待つだけだ。私はCDを一枚選び、プレイヤーの中に滑り込ませた。普段はスマートフォンにダウンロードした曲を聴いているが、やはりここはひと手間加えてから音楽に浸りたい。
 スピーカーからWhat a wonderful worldのイントロを奏でるストリングスの音色が聞こえる。日曜日の午前中が一際柔らかい空気で満たされていくのを、全身で感じることが出来た。

 ベルが鳴る。いつもどおりの時刻。少しだけ心が湧き立つのをなだめながら玄関へと向かう。スリッパで歩く足音が普段よりも大きく聞こえた。
 鍵を外し、ドアをゆっくりと開ける。右側からまだ子供っぽさを残した笑顔を携えた彼の姿が徐々に表れた。
「どうも」
「いらっしゃい。準備は出来てるから」
 背の高い彼の身体が玄関を滑りぬけるように入ってくる。青を基調としたチェック柄のシャツに黒のジーンズ。歩くたびにベルト辺りのチェーンが軽い金属音を立てる。一見華奢だが、上背のある彼が部屋の中に入ってくると、それなりに威圧感がある。ふと元夫との身長を比較したりして。
 彼は慣れた仕草でいつもの席に座った。私はキッチンに用意してあった食器を運び、彼の前に並べる。
「手伝おうか」彼は必ずそう言う。
「大丈夫」私はその申し出を柔らかく断る。
 程なくして朝食の準備が整った。今日はツナクリームパスタ梅肉添えとグリーンアスパラのサラダ、そしてカフェオレ。
「あれ、これって」
「そう。君がナンパして来たときに食べようとしてたもの」
「あれって、やっぱりナンパなのかなあ」
 私は照れたように頭をかいている彼の向かいの席に座る。湯気を立てているパスタの香りが心地よい。空腹感を適切に刺激してくれる。
私と彼は声をそろえて「いただきます」と言った。いつのまにか出来上がった二人の習慣だ。
 食事中、余り会話はかわさない。どこにでもあるような世間話をいくつかするだけ。昨日のサッカーの結果だとか、好きな芸能人だとか。終わった途端に弾けて消えてしまう泡のような話題ばかりだ。それ以外は黙って食事を続ける。サラサラとした時の流れの音が聞こえるようだ。
「このパスタ、美味しいよ」
「ありがとう。結構練習したのよ」
 実際に作ってみると、思いのほか簡単だった。ソースパンでベーコンと玉ねぎを具材としたホワイトソースを作り、その間にパスタを茹でる。私の好みは断然アルデンテだ。パスタが茹で上がったらホワイトソースに絡め、ツナを一缶分加える。そして最後に包丁で充分叩いた梅肉を混ぜ合わせるのだ。ホワイトソースの濃厚さと、梅肉のさっぱりした味覚が以外にも非常に合う。ある意味、癖になる味だ。これまで何度か試作を重ねてきた。その中でも今日は一番の出来だと思う。
 最初は普通に食を進めていた私だが、少しずつそのペースが落ちる。そして口いっぱいにパスタを頬張っている彼の姿を眺めている。美味しいと言ってくれるが、本当に味が分かっているのかどうか疑いたくなるような食べっぷりだ。
「どうかした?」
「ううん、別に」
 私たちは時折そんな短いやりとりを交わす。

 日曜日の午前中にこうして向かい合い、のんびりと朝食を一緒に取っている私と彼は、傍から見れば夫婦もしくは恋人同士に見えるだろう。しかしいずれも違う。お互いをほとんど知らない間柄なのだから。しかし、私はふと目の前にいる彼の名前、仕事、年齢などを知りたくなる。そして自分の名前が美也子で、小説家で、三十五歳で離婚歴があることを洗いざらい告げたくなる。
 しかしそれをした瞬間に私たちの関係は終わってしまう気がする。誰が決めたわけでもないのだがそういうものなのだ。私はそれが怖かった。彼のことを何も知らなくてもいい、この日曜日の朝食の時間を失いたくなかった。時間の長さなど何の役にも立たない。まるで慎重に積み上げたコインの山が、ちょっと横から風が吹くだけで崩れてしまうように。
 彼が何か言っていた。聞きのがした私は軽く微笑んでから「ごめん、何?」と聞き返す。
「これ、いい曲だね」
「ああこれね。いいでしょ」
「What a wonderful worldだっけ」
「そうだよ」
 それから打ち合わせしたかのように、ほとんど同時にカフェオレをすする。今日はいつもよりミルクが多い気がした。スピーカーから流れてくるメロディが鼓膜に大きく響く。
「ねえ、君にとって素晴らしい世界って何?」
 私の突然の問い掛けに、彼はマグカップを手にしたままポカンとしている。確かにそうだ。BGMがそうだからといって、この質問は余りにも唐突過ぎる。
「どこか具体的な場所ってこと?」
「そうでもいいし、何かこう抽象的なことでもいいよ」
「……」
 テーブルにマグカップを置き、彼は考え始める。首を少し傾げて、焦点をぼかし気味にして。私は両肘をついて彼の返事を待つ。先ほどとは質感の異なる沈黙が部屋の隙間をこまめに埋めた。
「俺にとって素晴らしい世界は……」
薄闇の中を漂うように、彼は自らの答えを見つけようとする。
「何て言うか、温かくて、明るくて、柔らかい感じかな」
 今度は私がポカンとする番だった。一応、自分なりに予想をしていた。常夏の楽園とか、恋人と過ごす甘い時間だとか、いわゆるありきたりなものだ。確かに抽象的なことでもいいとは言った。しかし彼の口から発せられた答えは、私の予想の範疇からは大きくはみ出ていた。
「それ、どういうこと」
 私は彼の真意を聞くために話題の焦点を絞る。
「いや、上手くは言えないけど」
 彼はテーブルの上のリモコンを手に取り、テレビを点けた。昨日ここから遠く離れた場所で起こった事件について報道されていた。朝の通勤ラッシュ時に起こった自爆テロだ。報道記者が被害の状況を詳しく伝えている。一夜明けても混乱は収まっていないようだ。合間に挿入される爆破直後の映像が生々しく、画面越しでもそこの火薬の匂いだとか、土煙だとか、人々の困惑具合が直に伝わって来る。
「君は見えている景色に温かさを感じる?」
「ううん、感じない」
「それじゃ明るさは?もちろん、日中ということは置いといて」
「感じない」
 彼は口元に笑みを浮かべてパスタを一口食べた。私は自分のマグカップにカフェオレを注ぎながら次の言葉を待つ。
「つまりそういうことだと思うんだよね。テレビの向こうで起こっている状況下では、温かさも明るさも柔らかさも何も感じない。ここからはただ街が破壊されているようにしか見えないけど、実際はたくさんの人が被害に遭ってるわけだし。あそこが素晴らしい世界だなんて、とてもじゃないけど言えない。だからある意味、その逆が素晴らしい世界だと思うんだ。特定の場所とかじゃなくて、そこで生活している人も、それを見ている人も、温かさや明るさや柔らかさを感じることができる、そんな環境が素晴らしい世界かなって」
 そこまで言うと、彼はにかむように視線を少しだけずらした。普段はあまり多くを語らないだけに、予想外の雄弁さに、自分で照れてしまったのかもしれない。テレビでは尚も報道記者が現地の様子を伝えている。確かにそこに素晴らしい世界は映ってはいなかった。

 温かくて、明るくて、柔らかい感じ。

 私は声に出さずに反芻する。正にそれが最も相応しい表現だと思った。同時に、彼のその感性はどのように培われたのか知りたくなった。
「それで君は?」
「え?」
「聞きっぱなしはずるいでしょ。俺が話したんだから、今度は君の番だよ」
 いつの間にか空になった皿を脇に置いて彼が言った。あれほど大盛りにしたパスタとサラダは彼のお腹にすっぽりと収まってしまっていた。
「……中央緑地公園、かな。知ってる?」
「いや、行ったことないな」
「この近くにある公園。ときどき行くの。周りが緑に囲まれていて、騒音なんかも全部吸い込んでくれてるみたいにとても静かで。それで、そこのベンチに座って深呼吸すると、気持ちがすうっと洗われて、身体の中がどんどん透き通っていく気がする。そのときかな、素晴らしい世界を感じるのは」
「いい所だね。帰りにでも寄ってみるよ」
 彼が一緒に行こうと言ってくれなかったことに、ちょっとした寂しさを感じた。そしてそう思う自分に少しだけ動揺した。

 その日の午後、原稿を仕上げた私は中央緑地公園へ行った。いつもの日差しが迎えてくれるので、私はほんのりと幸せな気持ちになる。もしかしたらと思って辺りを見回したが彼の姿は見当たらない。考えてみたら当然だ。彼が部屋を出て行ってから数時間が過ぎている。そんなに長いこといると考えることが不自然だ。もしかしたら最初から来てないかもしれない。軽くため息がこぼれる。
 木漏れ日がまぶしい。目を細め、少し上を向いてその優しい光を受け止める。そうするとふと意識が遠のいて、雲に包まれているような浮遊感を覚える。足元には身体一つ分の穴が開いている。穴の中は白く輝いているようで、どのくらいの広さなのかも、どのくらいの深さなのかも分からない。私はその中に沈んでいく。ゆっくりと、ゆっくりと。澄んだ湖へと入っていくように。不思議と恐怖感はない。むしろ気分が落ち着いていく感じだ。
 今、こうして味わっている感覚が、正に彼の言う素晴らしい世界なのだと思った。それはどこまでも広く、どこまでも深かった。時間も空間も超越していた。神に近付いているとさえ思った。他人からはバカげていると思われるかもしれない。それでも一向に構わない。これは理屈ではなく、体感した人間のみが得られるものだから。この肉体に響いているリズム。これが答えの全て。
 自分の細胞が空気と溶け合っていくのを感じた。何故か涙がこぼれた。どうしたんだろう。一度こぼれてしまうと止められなくなって、日光で温められた頬を濡らす。理由のはっきりしている涙は止めようもあるのだが、そうでなければ容易ではない。少しだけ青空が歪んで見える。この涙が乾く頃には、あの空は青さを増しているだろう。私は全身を投げ出すような格好でこの瞬間の空気を受け止めた。

(つづく)

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