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#12 姉と私とひこうき雲と ep.2

 何も予定がない週末。朝から掃除や洗濯を済ませた。窓を開けて部屋の中を新しい空気で満たす。空は雲一つなく、青く澄んでいた。このまま部屋に閉じこもっているのは勿体無い。ふとどこかに行きたいと思った。こんな気持ちになるのは久しぶりだ。アプリに表示された天気図によると、この辺りは大きな高気圧にすっぽりと覆われていた。今日のうちに天気が崩れる心配はなさそうだ。思い立ったが吉日とばかりに、私は鍵と財布だけを持って外に出た。
 車を石山通の南へ走らせながらこれからのことを考える。このまま真っ直ぐ進み、定山渓でゆっくり温泉というのはどうだろう。それとも更に中山峠まで足を伸ばし、観光客のように名物の揚げ芋を食べるのも悪くない。途中、偶然見つけたカフェでランチをして、小さな雑貨屋さんを見つけたらそこで絵葉書を数枚買おう。自分のしたいことだけをして、したくないことはしない。一人で行動するのは誰にも気を使わなくていい。
 しばらくしてある交差点で信号待ちをしていると、昔懐かしい車体をゆったりと滑らせて路面電車が左から右へと横切った。「そうか。そうだよね」と思わず独りごちる。ここの交差点を右に曲がって少し行くと父方の祖父母の家があって、子供の頃はお正月と夏休みはそこで過ごすというのが我が家の習慣だった。既に祖父母ともに亡くなり、家も取り壊されてからはこの辺りに来ることは滅多になかった。申し訳ないという気持ちと同時に、懐かしさで胸の奥がほんのりと熱くなる。

 小学校2年生の夏休み。その日も夏らしく朝から気持ちよく晴れ渡っていた。私は居間のソファに寝そべり、図鑑に書かれている天気記号を覚えようとしていた。あられは丸の中に三角、その三角を塗りつぶしたのがひう、それから丸の中に無限大のマークは煙霧。……煙霧って何だろう。庭ではお父さんとおじいちゃんが恒例行事であるバーベキューの準備をしていた。庭には手入れの行き届いたおじちゃん自慢のツツジやナナカマドが植えられていた。お母さんとおばあちゃんは台所で食べ物の準備をしていた。
「ねえ美幸ちゃん、あれ何だと思う?」
 宿題に飽きた麻衣ちゃんが外を指差しながら話しかけてきた。青空の下で藻岩山の緑が瑞々しく映えていた。
「ほら見える?あれ、何だか変だよね」
 どうやら麻衣ちゃんは山の中腹辺りにある建物のことを言っているようだ。言われてみれば確かに奇妙だ。全体が真っ白で、どんぐりの実をひっくり返した形をしていて、そのてっぺんからアンテナのようなものが伸びている。明らかに普通の家とは違う。
「行ってみない?あれが何か確かめようよ」
 麻衣ちゃんは好奇心に満ち溢れた顔で私を誘う。興味がないと言えば嘘になる。あそこにあんな建物があるなんて気付かなかった。どんな人が住んでいるんだろう。どうしてあんな所に建てたんだろう。私の中でも好奇心の芽がひょっこり顔を覗かせた。
「それじゃ、お母さんに行っていいかどうか聞いてみるね」
「ダメって言うに決まってるじゃない。だから今からこっそり行くの。そんなに遠くないし。さっと行ってすぐ戻って来ればいいんだから」
 きっと麻衣ちゃんは退屈してたんだと思う。今回もあの建物を見たいというよりは、大人の目を盗んで出かけるスリルを味わいたのだ。反論する間もなく、私は麻衣ちゃんに手を引かれて外へ出た。
「ワクワクするね。宇宙人とか住んでたりして」
 麻衣ちゃんはもう楽しそうだ。私はその背中について歩く。大人たちの楽しそうな声が徐々に遠ざかった。

 山の上にあるので見失う心配はない。そう思いながら私たちはあの白い建物を目指して歩いた。親の目から離れての行動は未知の世界へ足を踏み入れるようでドキドキする。見たことのある景色もどこか違って見えた。途中、コンビニで麻衣ちゃんがジュースを買ってくれた。普段はお母さんから禁止されていたが、外で飲むジュースは美味しかった。お互いを見合い、訳もなく笑った。先程までの微かな心配もいつの間にか消え、いつしか姉との小旅行に心躍る気持ちだった。
 山の近くまでは子供の足でも20分ほど歩けば来ることが出来た。しかし目の前にあるのは一面ススキで覆われた巨大な壁だった。直で登るには余りにも傾斜が大き過ぎる。残念だけどここまで来れただけでも充分楽しかった。もし帰ってからお母さんに「何してたの」と聞かれても、麻衣ちゃんと顔を見合わせてニヤニヤするのだろう。姉妹で秘密を共有できたようで私は満足していた。
 でも麻衣ちゃんは諦める様子もなく周りを探り、やがて斜面に沿った階段を見つけた。「ここから行けるよ」と麻衣ちゃんはしたり顔だが、私からするとあれを階段と呼んでもいいのかは疑問だった。使われなくなってもう何年も経っているのは明らかだ。一応、金属製の階段ではあったが全体的に赤く錆付き、特に手すりはほとんどその役割を放棄しているようだった。体重をかければもろくも崩れるかもしれない。何段くらいあるだろう。少なくとも庭のナナカマドの木よりは全然高い。しかし麻衣ちゃんは「それじゃ行くよ」と気にする素振りをみせない。
「ここ登るの?」
「だってここしかないもん」
「イヤだよ。帰ろうよ」
「何でよ。せっかくここまで来たんだから」
 そう言うと麻衣ちゃんはさっさと階段を登り始めた。このままだと一人取り残されてしまう。先程までの高揚感は何処へやら、瞬く間にそこはかとない不安が忍び寄ってくる。どうしよう。一人で帰るか階段を登るか。
「美幸ちゃん、ほら何してんの」
 既に麻衣ちゃんは手を伸ばしても届かないくらいの高さまで登っていた。思わず私は麻衣ちゃんの後を追った。最初は歩数を数えていたが、いつの間にか忘れてしまった。何も考えずに両足を交互に動かすだけ。風が吹くたびに周りに生えているススキがサワサワと揺れた。下から聞こえる車の音が少しずつ小さくなった。
 きっと麻衣ちゃんはこれぐらいの傾斜など大したことなかったのだろう。驚くべき速さでグイグイ進み、ようやく私が半分程度まで登ったぐらいのときにはとっくに登り終えていた。いつもよりずっと小さい麻衣ちゃんがいつもと違う角度から見えた。
「ねえ美幸ちゃん。ほらテレビ塔」
 その言葉に振り向くと、眩しい夏空の下に札幌の街が一望できた。平坦ながらテレビ塔を中心に広がる街並みは美しかった。大人になったらここに住みたい。ふとそんなことを思った。
 しかしそんな淡い思いも一瞬で吹き飛んだ。私は自分がイメージしていた以上に高い所まで登っていた。ナナカマドの木どころの話ではない。下に視線を移す。道路も車も玩具みたいに小さかった。鼓動が一気に跳ね上がる。身体が強張り、動けない。
「お姉ちゃん、怖いよ」
 必死の思いでそう言った。しかしそこに麻衣ちゃんの姿はなかった。何度も名前を呼ぶが返事がない。桁違いの恐怖が襲う。凝り固まった身体に力が入らない。足は勿論、指先を動かすことも出来ずに、すっかり斜面の真ん中で立ち往生してしまった。私はどうなるんだろう。まだ天気記号だって全部覚えてないし、バーベキューも食べてないのに。こうしている間にこの階段が壊れたら、真っ逆さまに落ちて死んじゃうかもしれない。そんなの嫌だ。私は生まれて初めて味わう絶望感に身を震わせていた。もう麻衣ちゃんを呼ぶ気力も失せていた。涙と鼻水が止まらない。ぜいぜいとした呼吸を繰り返し、ただひたすら泣いた。お父さん、お母さん、勝手にこんなことしてごめんなさい。ジュースを外で飲んでごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。
「君、大丈夫かい?」
 どこからか声が聞こえる。知らない人の声。男の人。大人。はっきりと聞こえるけれど、感情が邪魔をして返事が出来ない。
「動くんじゃないよ。そっちに行くから」
 何が起こっているのか分からず、私の鼓動は高まったままだ。下から階段を登る金属音が徐々に大きくなる。やがてそれはすぐそこまでの距離になった。人の気配がした。
「もう大丈夫だから。落ち着いて足を動かして」
 その声は私の身体を解すように響いた。まずは右足、それから左足。もう二度と動かないと思っていた私の身体が記憶を取り戻す。後ろを見るのは怖かったので、目の前の斜面だけを見つめて一歩ずつ階段を降りる。
 どれくらい繰り返したのかは分からない。とうとう私は地上に戻ってきた。私は膝から崩れ落ち、大声をあげて泣いた。
「どうしてあんなことしたの。ここは危険だよ」
 声をかけてくれたのは制服姿のお巡りさんだった。私は何も言えず、ひたすら嗚咽を繰り返すだけだった。
「美幸ちゃん、良かった無事で」
 その声に身体が過敏に反応した。何故かお巡りさんの後ろに麻衣ちゃんが笑顔で立っていた。どういうことだろう。いつの間に麻衣ちゃんがここに?
「上に行くとね、ちゃんとした道があってさ。なーんだと思ってたらあんた動けなくなってるし。だから人呼びに行ったらちょうどお巡りさんいたから。それでね……」
 後半は何も耳に入って来ない。怒りと安堵のないまぜ状態に、私はその日一番の大声で泣いた。いつの間にか日差しは柔らかくなっていた。もうすぐ夕方になろうという時間帯。近くにいた一羽のカラスが私を慰めるようにカアと鳴いた。
 当たり前だが、家に帰ってから私たちはこっぴどく怒られた。みんな心配して探していたのだそうだ。普段は優しいおばあちゃんまでも顔を真っ赤にして私たちを睨んでいた。私はすっかり落ち込んでいたが、麻衣ちゃんはめげない。その日の夜、並んで布団に入っていると、麻衣ちゃんが「ちゃんとした道見つけたから、今度は大丈夫だよ」とこっそり私に言った。当然、全力で拒否した。もうあんな思いはこりごりだった。
 どう考えてもこの一件で悪いのは麻衣ちゃんだ。麻衣ちゃんが変なこと言わなければ外に出なかったし、あんな怖い思いをしなくても済んだのに。しかし麻衣ちゃんは私に謝らなかった。それどころか言葉巧みに状況を説明し、周りにはお巡りさんを呼んだその機転を褒める空気が出来上がった。麻衣ちゃんには叶わない。子供ながらにそう思った。

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 後方からクラクションが鳴る。既に信号は青に変わっていた。ほろ苦い思い出に一つ大きく息を吐くと、私はアクセルをそっと踏んだ。行き先はまだ決めていない。
 この一件があって間もなく、古びた階段は撤去されたのだそうだ。ちなみに私たちが目指していたのはお寺の納骨堂だったらしい。今も同じ佇まいでそこにあるが、あれ以来、大人になってからも近くに行ったことはない。(ep.2 了)


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