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#11 姉と私とひこうき雲と ep.1

 それは一昨年のこと。ライラック祭りが開催されていたから、五月くらいだったと記憶している。その頃の私は地下鉄の駅が近くにあるマンションで一人暮らしをしていた。間取りは1DK。決して広くはないが一人で暮らすには充分だった。中心部からは少し離れていたけれど、職場までは地下鉄一本で行けるし、近くにスーパーやコンビニ、それから居心地の良い居酒屋もあったので、特に不自由なこともなく日々を満喫していた。公哉君からはそろそろ一緒に暮らしたいという旨を極めて婉曲的な表現で伝えられていたが、私としてはこの環境を崩したくなかったし、何より一緒に暮らすのは彼が大変だろうなと勝手に思っていたので、その申し出をやんわりとはぐらかしていた。
 そんなある日の夜のことだった。私がお風呂から上がってスマホを確認すると、「とんでもないことが起こった」という麻衣ちゃんからのメッセージが残されていた。更には「大ピンチ。今から来て。大至急。お願い」とも。とりあえず電話をかけたが麻衣ちゃんは出ない。私は大きくため息をついた。よくもこんな古びた作戦を使うものだ。そもそも大ピンチと自分で言っている時点で大したことはない。愚痴を聞いて欲しいとか、育てている金魚の調子が悪いとか、そんなどうでもいいことで私を呼び出すつもりだ。こんなのは無視するに限る。今からと言われても髪もまだ濡れているし、パジャマに着替えてしまったし、何より既に10時を過ぎているから、今からの外出は確実に明日の仕事に差し支える。麻衣ちゃんは時間的に自由かもしれないが、私には私の生活のリズムというものがある。そんなに都合よく動けるわけじゃないのだ。

「美幸ちゃんごめんね。もうどうしていいか分かんなくてさ」
 カーテンを開けた窓越しに豊平川がよく見えた。夜景に照らされた水面は幻想的だったが、私の心に巣食っているのは後悔と自責の念だった。
 タクシーで15分ほどの距離にある、麻衣ちゃんが旦那さんの裕之さんと住む部屋に私はいた。10階建てのマンションの最上階の部屋には、私が住む部屋とは比べものにならない程の広いリビングがあって、そこに裕之さん自慢のスイス製だったかイタリア製の高級家具がセンス良く配置されていた。しかし私が目にしているのは、ゴミ屋敷のような惨状だった。
「こんなになっちゃって。もう限界だよね」
 麻衣ちゃんは子どものような屈託のない笑顔でそう言うが、どこをどうやればこうなるのか皆目見当がつかない。ソファや椅子、テーブルに麻衣ちゃんの私服やアクセサリーが散乱し、床に至ってはこれも裕之さん自慢の大理石が見えないほどで、文字通り足の踏み場もなかった。ここだけを切り取って見たら、大抵は泥棒が侵入したかと思うだろう。しかしこれこそが麻衣ちゃんの麻衣ちゃんたる所以の一つなのだ。子どものときから麻衣ちゃんは片付けが苦手だった。私に言わせれば使い終わったら元の場所に戻せばいいだけなのだが、それがどうしても理解できないらしい。「物が勝手に戻ればいいのに」とは麻衣ちゃんが高校生のときに発した、私にとって忘れられない名言だ。
「ねえ裕之さんは?出張?」
 私はひとまず足元にある、サイズ的にも気持ち的にも抵抗のあるデザインのデニム製のミニスカートを拾いながら聞いた。
「先週からイギリス。明日の朝には戻ってくる」
 裕之さんは札幌で木製の輸入玩具を扱うお店を経営している。こんな時代に、いやこんな時代だからなのか、かなり流行っているようで、しょっちゅう買い付けなどで海外を飛び回っている。
「彼が帰ってくる前に何とかしたいんだよね」
「だろうねえ。ねえ、これは?」
「ああ、それ頂戴」
 私は手にしていた散らかりの要因を麻衣ちゃんに向かって放り投げた。
 その後も私は麻衣ちゃんから矢継ぎ早にでる指示に従って、私は操り人形のように作業を続けた。服をたたんでまとめる。シャツ、下着、スカート、指輪にピアス。少しづつカテゴリー別に分けられた山が出来ていく。いつの間にか額にはうっすら汗が滲んでいる。整頓されていく過程がいつの間にか私に集中力を与えていた。
 どのくらい続けただろう。もうすぐ日付が変わる頃か。
「凄いねえ。やっぱり美幸ちゃんがいるとはかどるもん。助かるわ」
 その声に軽い金属音が重なった。ふと我に返る。麻衣ちゃんは少しだけ素肌を取り戻しているソファに座って缶ビールを飲んでいた。
「ちょっと何してんの」
「休憩だけど」
「何もしてないじゃない」
「やめてよ。こっちだって指示するの大変なんだから」
 それから麻衣ちゃんは別の缶ビールを差し出し「飲む?」と言った。私が受け取らずにいると、それ以上は無理に進めることなく、何やらブツブツ言いながら冷蔵庫に戻した。
 これまで必死に無視していたやるせなさが、疲労感に形を変えて背中に押し寄せる。
 いつもこうだ。この人は何か問題が発生しても、周りを使うだけ使って自分は何もしない。最大の犠牲者である私は、自分が当事者であるかのように右往左往し、解決の糸口を見出し、「美幸ちゃんありがとう。助かる」と取り繕った言葉をもらうだけだ。何の利益もない。今回だって結局は裕之さんに怒られたくないからに違いないし、私に手伝わせたことなんて一言も触れないに決まってる。もういい。どうしてこんな思いをしなければならないのか。帰ろう。自分の役割は充分過ぎるほど果たしたはずだ。残りは自分でやればいい。私がそう告げようとしたとき、「後はこれに詰めちゃえばいいから」と言いながら麻衣ちゃんが奥から派手なピンクのキャリーケースを持ってきた。
「運んでから何とかするから。どんどんやっちゃってよ」
「どうして?」
「だって、早くしないと出られないでしょ」
 それから麻衣ちゃんは他のキャリーケースを出してきては、そこに詰め始めた。話が見えない。どうしてそんなことをする必要があるのだろう。寝室に大そう広いクローゼットがあるんだからそこに運べばいいのに。いかにも私が腑に落ちない顔をしていたのか、麻衣ちゃんは微笑んだ後、「あたしね、離婚するの」と言った。
「え、どういうこと?」
「だから彼が帰ってくる前に出て行こうと思って」
「……」
「ほら急いで」
 話の見失い度合いがさらにまた上がる。離婚?裕之さんと?こんないい暮らしをさせてもらってるのに?そんな疑問が頭ん中をぐるぐる巡る。
「それホント?」
「まあね」
「裕之さんはなんて?」
「別に何も。そんなの言ったところでねえ。」
「だって明日帰ってくるんでしょ」
「だから今日中にって言ってるんじゃないの」
「麻衣ちゃん、意味分かんないよ」
「意味分かって離婚する人なんていないと思うけどね。あ、それもお願い」
 先ほどと打って変わって麻衣ちゃんは手際よくキャリーケースに詰め始めた。その背中を眺め、何かを測り知ろうとした。しかし眼に映るのは奇妙なくらいに淡々とした背中だ。ちょっとそこまで買い物にでも行くようなさらりとした軽さのような。私は作業を再開できない。自分の行動に理由が欲しかった。なぜ私は姉が計画した夜中の逃亡計画に加担しているのだろうか。
「ねえ、やっぱり頂くね」
 返事を聞く前に冷蔵庫からよく冷えた缶ビールを取り出し飲んだ。普段は余り飲む方ではないのだが、飲むことで胸の奥に留まり続ける疑問を洗い流したかった。
 私から見て裕之さんは良く言えばマイペースな、悪く言えば枚挙に暇がない姉を上手にコントロールしていたと思う。麻衣ちゃんもその立ち位置に満更でもないようだったからこそ、この結論までを導く何か強い動機があるのではないか。しかしそれがどこから来るものなのか理解できない。
 そうこうしているうちに、麻衣ちゃんはあれだけ散らかっていた衣類などを全て5つのキャリーケースに納めた。よくもまあこれだけの量を散らかしたものだとある意味感心してしまう。
「さて、それじゃ行こうか」
 そういうことか。私は片付けと同時にこの荷物を運び出す係でもあるのか。今夜は一先ずカプセルホテルとかマンガ喫茶などに泊まるとしても、明日からはどうするつもりだろう。麻衣ちゃんの性格上、きちんと計画を立てて行動するとは思えない。
「今夜はあたしがソファでいいから」
「は?」
「やっぱりいきなりベッドってもの流石に図々しいでしょ」
「私のこと来るの?今から?」
「だって他にどこ行くのよ。よろしくね」
「……」
「あ、タクシー呼んでもいい?」
 
 ようやく合点がいった。結局私は逃亡計画の着地点。あの狭い1DKに麻衣ちゃんとこの大量の荷物がやってくるということは、それまで保ってきた秩序が破壊されるのは目に見えている。矢継ぎ早に起こるおぞましい想像にめまいがしそうな気持ちを抑えて、それでも私はキャリーケースを玄関まで転がした。ガラガラとした音がやけに耳障りだった。(ep.1 了)


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