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#19 What a wonderful world(4/5)

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 母校の大学から講演の依頼が来た。学生に「自分で組み立てる人生」というテーマで話してほしいとのこと。人前で喋るのは久しぶりだ。どうして私が、という疑問を持ちつつも、せっかくの母校からの依頼ということ、マンションから地下鉄一本で行けるという利便性も手伝って、締め切りも近かったのだがつい引き受けてしまった。
 それにしても学生に対して、大学の、そして人生の先輩として講演をするとは。そんな立場になったのだという気恥ずかしさに、自分もそれだけ歳を取ったのだというほんの少しの寂寥感が入り交じる。
 地下鉄に揺られながら、夕べ突貫で考えた講演の原稿に目を通す。いつものことなのだが、何かをするにしてもギリギリにならないとやる気が起こらないのだ。学生の頃も、試験の前日になってようやく友人のノートをコピーさせてもらうという危ない橋を何度も渡っていた。当時から何も変化していないような気がする。当時の記憶に自分の今の姿が重なり、時間軸が大胆に揺れる。
 大学関係者との約束の時間よりも随分と早くついてしまったので、私は久ぶりに大学構内を散策してみることにした。
 南北に伸びるメインストリートをゆっくりと歩く。昨日の雨のせいで両脇に植えられている楡の木々は瑞々しかった。多くの学生とすれ違う。なんて歩調が軽いのだろうと思いながら、私が彼らの残してくれた軌跡をなぞる。

 ふと足が止まった。向こうに学生のグループが見えた。男女二組の学生たちは、談笑しながらこちらへ近づいてくる。その姿がはっきりするにつれて、私の目は瞬きを忘れたかのように大きく見開かれた。
 あの中に彼がいた。日曜日の午前中に私のマンションを訪れる彼だ。口元にソースやケチャップをつけながら朝食を食べ、そして次の約束を軽く交わして立ち去る彼だ。
 なぜこんな所にいるのだろう。
 そんなバカげたことを考えてしまう。ここの学生だったんだ。もちろん、大学構内には学生以外の人間はたくさんいる。しかし彼に関しては間違いない。ここの空気との溶け込み具合がそれを存分に証明している。肩を並べているのは恋人だろうか。背中まで伸びた髪が陽光を浴びて艶やかに光っている。優しく彼を見上げる眼差しは、何よりも気持ちを雄弁に物語っている。学生生活が楽しくて仕方がないと言わんばかりの豊かな笑顔で。彼もその視線を焼き上がったばかりのスポンジケーキのように、甘くふんわりと受け止めていた。あんな彼の表情、私は今まで見たことがない。
 その場から動けなかった。足の裏がアスファルトに貼り付いている。そうしているうちに他の学生と一緒に彼の姿が大きくなる。徐々に密度が高くなっていく空気に気圧されそうになるのを必死に堪えた。やがて私と彼の肩が最短距離に達した瞬間、心臓がトクンと大きく伸縮した。やがてゆっくりとすれ違う。その間、視線が合うことは一度もなかった。彼は私の存在に気付いているのだろうか。ふとそんな疑問が頭をよぎる。気付いていないもかもしれないし、無視しているのかもしれない。何故だろう。たとえ偶然であったにしても、私の部屋以外で顔を合わせるのはルール違反なのか。いかなるときも、お互いについて必要以上に知ることがあってはならないのか。だとしたら一番悪いのは私だ。彼を見つけ、心を乱されている私自身だ。

 彼にちょっと無視されたぐらいで。
 彼の横に恋人のような女がいたぐらいで……。

 恐らく、彼の中で私は日曜日の午前中だけ存在しているのだ。それ以外に私の姿は彼の目には映らない。そう思うことで、先ほどの彼の一連の行動も理解できるような気がした。それで気持ちが晴れるわけでもないけれど。
 私はようやく歩き出した。いつまでもこうしていると、これから学生に講演することすら忘れてしまいそうだった。

*****

 義母が入院した。講演が終わった二日後の夜に元夫から連絡があった。話によると、義母は定期健診の際、肺に腫瘍のような影が見つかったそうで、それが良性なのか悪性なのかを再検査する必要があるのだという。
 突然の知らせに私は愕然とした。スマートフォン越しに聞こえる元夫の声が、波のように寄せたり引いたりしていた。コーヒーを飲むたびに喉の奥がゴクリと鳴り、それがやたらと耳障りだった。
「それで、お義母さんの具合は?」
「それなりに落ち着いてる。本人には単なる検査入院だと言ってるから」
「本当に癌だったりするの?何かの間違いじゃないの?」
「まだ何とも言えないな。再検査の結果が出ないと。ただ主治医の先生によると、最悪の可能性もないわけではないらしいし」
「お義母さん、治るよね。すぐにまた元気になるよね」
「……」
 息遣いだけが聞こえてくる。元夫の底知れぬ不安を的確に表していた。
「元気出して。絶対に大丈夫だから」
「ああ」
 声が少しかすれていた。泣いているのかもしれない。弱気になっている元夫を感じるのは久しぶりだったし、離婚してからは初めてだ。義母の容態はもちろん心配だったが、その反面、私に対してまだこのような感情を素直にさらけ出してくれることに多少の嬉しさもあった。
 キッチンで二杯目のコーヒーをカップに注ぎ、夜食用に準備していたブルーチーズを一切れ食べた。
「……ハイネケン?」
「今日は違う。昨日飲んで切らしちゃったから」
 そんなやり取りでお互いに軽く笑い合う。こんな感じは久しぶりだと思った。そしてこの前のように元夫が部屋に来たいと言ったなら、私は受け入れるつもりでいた。今夜はそんな気分だった。
「とにかく元気出してね。あなたがふさぎ込んでると、お義母さんだって治るものも治らなくなるから」
「そうだな」
「お見舞いに行くから。お義母さんがずっと通ってた病院でいいの?」
「ああ。……美也子、ゴメンな」
「え?」
「実は美也子に伝えるかどうか迷ったんだ。でもこうして話せてよかった。僕自身も元気が出たみたいだ。ありがとう」
 私は少し言葉を失いかけ、奇妙な間が空いた。そして辛うじて「いいの、こっちこそ教えてくれてありがとう」とそれだけを言った。
 そのあと、私たちは静かに会話を終えた。胸の奥にくすぶる薄黒の靄のようなものを感じた。元夫が迷ったということは、義母の入院を私に知らせたくなかったということだろうか。離婚した元嫁には自分の母親の入院を連絡する必要はないと思ったのだろうか。確かに短い期間ではあったけれど、彼女とは間違いなく親子であったし、それは水平線にゆっくりと沈んでいく夕日のように大切な時間の堆積だった。私は今でもそう思っている。でも元夫は違うのかもしれない。
 私は大きく息を吐いた。もうよそう。考えたところで元夫の心中を計るのは困難だし、何よりも自分が惨めになるだけだ。
 キッチンでは出番のきっかけを失ってしまったブルーチーズが暇を持て余している。気が変わった。これは明日にしよう。ブルーチーズを冷蔵庫に戻すと、代わりにコーンフレークの入った箱とバナナを一本取り出した。多少底の深いお皿にコーンフレークをたっぷり盛り、その横に一口大に切ったバナナを添え、牛乳をなみなみと注ぐ。
 まだ私が離婚する前、晴れた休日の午後に義母がよく用意してくれた。
「おやつとは言え、もっと手の込んだものを作らないと主婦失格ね」
そんなことを言いながら、二人でお喋りを楽しんだ。
 一人きりの静かな部屋の中に、義母との思い出がいくつも浮かんでいる。それらは膨らんだ風船のようにゆっくり漂い、時にはふんわりとぶつかっては、お互いに柔らかくその向きを変えた。
 義母の入院という事実を、まだ理解しきれていない。頭の中の回路が拒絶しているようだ。私の知っている義母はいつも元気いっぱいだった。上品な笑みを絶やさず、周囲の温もりとなっている人だった。
「私はね、周りの人が楽しんでいるのを見るのが好きなの」
 常々そう言っていた義母。私はその笑顔に憧れた。いつか自分もあんな笑顔が似合う女性になりたいと思っていた。
 すぐそばで大きな音がした。意識が過去へ遡っていた私は、手にしていたスプーンをお皿の上に落としてしまったのだ。その音は空気を微細に振動させ、思い出の風船が弾けて消えた。

「そんなふやけたのが好きなんて、お袋も歯が弱くなったよな」
「何を言ってるの。元々こういうのが好きなのよ。ねえ美也子さん」
「はい。とても美味しいです」
「でしょ?美味しいんだから。嫌ならあっち行って」
「いやいや、女二人が結託すると敵わないな。こりゃ退散だ」

 あの義母が病気に負けるはずがない。再検査したら腫瘍は良性ということになり、あっけなく治ってしまうに違いない。そうに決まっている。明日、お見舞いに行こう。きっと義母はいつもの笑顔を見せてくれる。そして久しぶりに軽口を叩き合うのだ。

 次の日は朝から細かい雨が降っていた。乾いた地面に雨が染み込んで、地球が喉を潤している。簡単な身支度を済ませると、私は義母が入院している病院へ向かった。
 病院内は診察を待つ人や見舞いに訪れた人などが大勢いた。そして全体を覆う消毒薬の匂い。この雰囲気に違和感を覚えることで、自分自身が健康であることを知る。
 五階の一室に義母がいる。私を見ると少し驚いた表情を浮かべ、すぐに照れたようにはにかんだ。
「まあ美也子さん、わざわざ来てくれたの」
 淡いピンクのパジャマを着た義母は、以前に会ったときよりも更に小さくなったようだ。私は頭の中で勝手に作り上げた理由を慌てて振り払う。
「検査入院なんですって。昨日連絡がありました」
「そうなの。だから大したことないんだって」
「そんな感じです。顔色も良さそうだし」
「でしょ?こんなところにいたら、却って病気になってしまう」
 安心した。義母は元気だ。これから再検査の結果も問題ないだろう。胸の奥に小さな確信が芽生える。
「検査の日はいつなんですか?」
「明日よ」
「それじゃ、家に戻られるのもすぐですね」
「そうだといいのだけれど。……きっとそうよね」
 このとき、私は義母の表情が一瞬だけ曇ったのを見落としていた。
 雨は徐々に強く降り出した。窓ガラスを叩く音が耳に響く。私たちは持参したリンゴを一緒に食べた。シャキシャキした歯ごたえと、口の中に広がる濃厚な蜜の味。美味しさに頬が思わずほころぶ。
「このリンゴ、美味しいですね」
 義母は私の問い掛けに答えない。無表情に視線を外に向け、手にしたリンゴを一口も食べていなかった。
「……本当に大丈夫なのかしらね」
「え?」
「みんなは大丈夫だとか、大したことないって言うけど、本当に大丈夫なら再検査なんてしないでしょ。疑わしい何かがあるからするんでしょ」
「そんなことないですよ。検査入院っていうのは」
「あなたに何が分かるって言うの」
 突然、義母が怒鳴った。その拍子に手にしていたリンゴが床に落ちた。一瞬の剣幕に私はひるみ、言葉を失う。
 窓を打つ雨音。床に落ちた林檎。私たちを取り巻く空気。
 考えてみればそうだ。入院しているときに、いつものように心穏やかでいられるはずがない。表向きはにこやかでも内心は不安でいっぱいなのだ。……そんなこと相手の立場になれば分かることなのに。
きっと義母は止めどなく押し寄せる不安と闘っている。時には打ち破り、そして時にはくじけそうになりながら自分の精神状態を保っている。
 私が浅はかだった。義母への詫びの言葉も思いつかず、私はそっと床に落ちたままのリンゴを拾った。
「ごめんなさいね、美也子さん」
 また視線を外に向けて義母が呟くように言う。
「そうなのよね。検査結果が出ていないから、あれこれ心配しても仕方ないのよね。でもつい心配になってねえ。一人でベッドに横たわっていると、人生を振り返ったりするの。そうしたらいつもやり残したことが浮かんでくるのよ。あれもしてない、これもしてないって。どれも退院したら出来ることばかりなんだけど、そんなときが本当に来るのかって思っちゃうの。すっかり気持ちが弱くなったみたい」
 返す言葉など見つからない。時に言葉は、事実や感情を正確に表現するという、己の役目を拒絶するようだ。

―――そんなことないよ、お義母さん。
―――検査結果は問題ないから。
―――大丈夫。きっとすぐに退院できるよ。

 そんな言葉が何の慰めにもならないことを、私は今なら理解できる。
「わかります。わかりますから、お義母さん」
 私はそれしか言えなかった。雨音は相変わらず激しいが、それもどこか遠くで聞こえるようだった。

(つづく)

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