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#16 What a wonderful world(1/5)

 男性が食事をしている姿を眺めるのが好きだ。箸やフォークやナイフ、時にはスプーンを使って、次から次へと色とりどりの料理を口元へ運ぶあの仕草。マナーなど気にせず、ただ自らの空腹を満たすためだけに一心不乱に食を進める光景は圧巻でさえある。女性の私にはとても真似できない。まるで別の意識を持ったかのように咀嚼を繰り返すその口からは、いつも強烈な異性の匂いがする。

 私は今、向かいに座ってトーストをかじっている彼を眺めながらそんなことを思っている。窓からは柔らかい日差しが漏れ、穏やかな日曜日の午前を演出していた。どうやら今日は良い天気のようだ。私の部屋の中は静かで落ち着ている。ただ彼がトーストを食べ、コーヒーをすする音が響くだけだ。
「トースト、まだ焼こうか」
「いや、もういいよ」
 それから彼はトマトケチャップたっぷりのスクランブルエッグを口に運んだ。口の端にケチャップが残り、それを器用に舌で拭うように舐める。 
 私は彼のことを何も知らない。彼の名前も、住所も、メールアドレスを始めとする連絡先も、電話番号も、何をしているのかも、年齢はいくつなのかも、家族構成も、そして今まで歩んできた人生も。ただこうして日曜日の午前中になると、向かい合って朝食を取るだけだ。
「お腹いっぱい。ごちそうさま」
「コーヒー、もう一杯どう?」
「いただきます。君は?」
「うん、飲もうかな」
 私たちはそれほど会話を交わすことなくコーヒーを飲んだ。私はブラックで、彼はミルクをたっぷり入れて甘みは少々。
「じゃあ、そろそろ行きますね」
「そうね。そんな時間ね。……気を付けて」
「それじゃ、また来週に」
「リクエストがあるなら受け付けるけど。来週は何がいい?」
「すぐには思いつかないな。君が作ってくれるものなら何だっていいです」
 そう言い残して彼は出て行った。一人残された部屋には、彼の名残が粒子となってふわふわ浮かんでいる。それは半年も前から続いている、日曜日の午前中の風物詩。私は食器をキッチンに運びながら、これでまた次の一週間が始まるのだと思った。

 私は小説を書いて何とか生きている。子供のころから文章を書くのが好きで、高校生になると、短編小説や詩などをノートに書き留めるようになった。大学卒業を目前に控えたある日、雑誌に掲載されていた、ある出版社の「原稿募集」という広告を目にした私は、導かれるようにそれまでの原稿とも言えないような文章の束を送ったところ、それがその出版社主催の新人文学賞の大賞を取ってしまったのだ。何となく、という表現がぴったりな作家生活のスタートだった。
 あれから十年以上の時間が流れて、私は今も小説を書いている。恋愛小説を中心に作品を発表している。時折、雑誌の取材を受けることもあるのだが、「現在の若い女性の恋愛観を見事に表現している女流作家」などという評判を目にするたびに首を傾げざるを得ない。別にそんな大それたことを考えているわけでもなく、やはり「何となく」が私の作家としてのスタイルなのだ。そういう点では十年前と少しも変わっていない。

 彼と出会ったのはある土曜日の夜のこと。その日は原稿の締め切りが目の前だというのに、完全に暗礁に乗り上げてしまっていた。いくら頭をひねっても何も浮かんでこない。朝から一行も進んでいないのだ。私は作業を中断し、出掛けることにした。外の空気を吸えば何か浮かんでくるかもしれない。軽くメイクをし、お気に入りの服を着て、私は駅前にあるいつものバーへと向かった。
 カウンターの一番奥のいつもの席に座り、ライムを絞ったマイヤーズを飲みながら、ガーリックトーストをかじる。ガーリックとバターの焦げた匂いが鼻腔を心地よくくすぐった。仕事を忘れるには美味しいものを食べるのが一番だ。
「それ、食べないんですか?」
 声の方向に顔を向けると、そこには若い男の子がいた。
「そのパスタ、一口いいですか。美味そうだから食べてみたくて」
 彼は私が注文した「ツナクリームパスタ梅肉添え」を指差しながら続ける。店内の淡い照明で分かりにくかったが、ずいぶん年下のようだ。十歳下だとすると二十五歳くらい。笑顔から覗く歯は白く、歯並びも綺麗だ。それに背が高くて手足が長く、顔がすっと小さい、洗練された雰囲気をいかんなく放っている。だからと言って特に好みのタイプでもないけれど。
「自分で注文したらいいじゃない」
「そこまで食べたいわけじゃなくて。注文して不味かったら嫌でしょ」
 屈託のない笑顔に、ふと私は彼がどんな表情で食べるのか知りたくなった。新手のナンパかと思ったが、それならそれで暇つぶしに乗ってみようと思った。今さらナンパで翻弄されるほど私は子供ではない。
「いいよ、どうぞ」
「そう言ってくれると思ってました。それじゃ」
 彼は私の隣に座り、フォークを手に取ると、これ以上はないほどパスタを巻いた。そして大きく口を開け、その塊にかぶりついた。口の周りにツナクリームが付いている。その勢いのある食べっぷりが、私には好ましく映る。
「美味いですね。初めての味です」
 これほど美味しそうに食べられてしまうと、途中で返してほしいと言いづらくなってしまった。すでに半分以上を食べられている。
 そのとき、私の中でカタリと音がした。書けるかもしれないと思った。この瞬間は私にとってはとても大事だ。この瞬間を逃さずに捕らえることで作品は形作られていく。どのようになっていくかは見当もつかないが、今なら何とかなるかもしれない。彼の食べっぷりを見ているうちにそんな気がした。私はそそくさと帰り支度を始める。
「え、帰るの?」
「うん。仕事思い出しちゃって。あ、それ全部、食べてもいいよ」
「いいんですか。ありがとうございます」
「いいの。お礼を言うのはこっちだから」
 私はグラスの下のコースターを手にし、そこに自分の住むマンションの住所を書いて渡した。
「え、これって?」
「明日の朝、そこへいらっしゃい。朝ごはんをごちそうするから」
 そう言って私はバーを出た。呆然としている彼の姿は背中がしっかりと感じていた。(つづく)

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