見出し画像

飛行友達

 昭和六十二年の「暮らしの手帳」六、早春号に私の書いた文章が掲載された。その頃夢中になっていた軽飛行機のことを書いた文で、私としてはもともと原稿用紙四枚程度で一万五千円貰えるなら、ん、悪くない。この稼ぎ、よし、いっちょやってみるか、位のいとも浅ましい魂胆からでたきっかけで、この文章を通してお友達ができるなどとは夢にも思っていなかった。ごく気軽に一時間足らずで書上げ、こんなにイーズィに書いてお金が貰えるわけないよな、とポストに入れて三日もすると忘れてしまっていた。投函してから二、三ヶ月して私は現金封筒を受取った。 あら、何かしらと差出人を見ると暮らしの手帳社。その時の嬉しさは、期待していなかっただけに大抵ではない。別便で私の文の載っている「暮らしの手帳」も送られて来た。貰った一万五千円は次の日家族で当時開店して程ない国道沿いのステーキ屋に食事に行き、幾分足出し気味で、みんなの満腹のゲップとともに冬の夜空に消えた。お金なんてはかないものである。
 はかなくないもののひとつに友情がある。 Kさんは私の書いた記事を読んで、すごいなあ、と思わず声をあげたという。本が発売になってからしばらくして暮らしの手帳社から封書が届き、編集部あてにお手紙が来ましたので転送します、という知らせといっしょに一通の書面が入っていた。それがKさんとのはじめまして、になる。Kさんは自分にもできるかどうかわからないけど、とにかく事務所に連絡して詳しいことを聞きたいので、連絡先を教えてほしいという内容の、実にすっきりした字も感じのいい手紙を書いていた。
 私がまだ軽飛行機に憧れて、その当時はうちから車で五分で行けた飛行場へ休みのたびに見にいっていた頃、クラブのボスのMさんはかわいそうに思ったのか、私を乗せて5分ほど飛んでくれた。もとはといえばそれがトリッ ガーになっているのだが、私はその時自分も習いたいと意志を表明した。かたわらには千葉から来ていたFさんがいたが、私のいうことを黙って聞いていて最後にひとこと、「主婦がねぇ」といったものである。なんといわれようと私は五分にしろ地上を離れたうれしさに、その日はとめてある車のところまでスキップしていった。だからKさんがやってみたいといって来た時は、同じ羽の色の鳥をみつけたうれしさで、すぐ返事を出した。やってみたいと思う人はたくさんいても、実際にやる人はごくまれである。Kさんはそのごくまれな人のひとりで、かくいう私も人のことをいえる身分ではない。東京に住む彼女はほとんどペーパードライバーであると聞いていたが、驚いたことに常磐高速に乗って私の家まで車で来た。私も小さい頃からずいぶん「がむしゃら」とか「無鉄砲」 「むこうみず」などといわれて育ってきたが、上には上があるものと、この私が感心したものである。彼女は少し足が不自由だということであったが、見る限りでは特にそんなふうには思えなかった。私よりずっと熱心に、大竹海岸から鹿島に飛行場が移っても、彼女は休みを利用して訓練に通っていた。私はむこうで彼女に会うことはほとんどなく、お互いに仕事をもっている身なので、ふたりとも完全にフリーになった時間に電話で話すのが常である。おかしなもので電話であれほど話しがあるのに飛行場であうとちょっと勝手が違う。故意そうしているわけではないが、彼女は彼女で飛行機仲間の人と話しているし、私も私をほっといてくれる人がありがたい。彼女のいいところは他人の美点をその場で口に出してほめることである。見え透いたお世辞というのではない、ちゃんと物事を見極めた上で、自分の判断を下し最も適切なことばで相手をほめる。彼女は実にボキャブラリーが 豊かで、ふだんから意識してことばというものに対していることが伺われる。又実際の場で充分に、ことばによって人に与える印象や影響というようなものを考えて話している仕事ぶりも想像できる。どんな仕事に携わっているのか、よくはわからないがおそらく彼女がいないとシャッターはあげられない、という感じはする。そしてそういうことは人にはいわない、ということを知っている人でもある。私などとは違って物事を好き嫌いで判断しない。つまり女性には珍しい論理的な人といえる。
 その彼女がつい最近弱音を吐いた。足のことである。小学生の時手術を受けた股関節脱臼が二十数年経った今、再び痛みを伴って悪化しはじめたらしい。この病気は完全に成長しないうちに手術をして、その後の骨の成長に処置があっていなかった、という場合には再手術を要することが往々にしてある。小学校の時に味わった手術への恐怖をまた味わわなければならないのか、と思うと彼女はさぞ暗い気持ちになったことだろう。しかしこのままには置けないことも充分にわかっている。 もはや子供でない彼女がそういうディレンマに陥ったことを、私は少し意外に思ったものである。ここで私のあまり自慢にもならない、それどころかおおいに恥ずかしい骨折物語が思いがけず役に立った。
 「ほら、暮らしの手帳の記事にあったでしょう?冬場のから滝の上からころげ落ち…ってあの時よ、私も下半身ギプス巻かれて、自分では何ひとつできなかったわよ。」と苦い思い出を彼女に話した。あのときはまさにいやもおうもなく、救急車で運ばれ、全身麻酔のマスクを口元にもって来られ、「はい、数を数えて、一、二…」 。人の意見も聞かないで、何が一、二だ、などと言っては罰が当たる。なにしろあのままあの場所に放っておかれたら私は出血多量で腕に抱えていた本があの世行きの切符がわりになったかもしれないのである。彼女は私の体験を真剣に聞き、少しでも自分にプラスになるものがあれば、電話の線をも口にしかねない程、決断のためのいとぐちを求めていた。経験がある、ということは何にしろ役に立つ。「あのね、ほかの人のいうことで、これだけ皆変わらないっていう部分があるでしょ?」 それは多分真実なのよ」と私がいった時、電話のむこうで彼女が息を飲んだように黙った。
 それからしばらくして彼女の明るい声の、診察を受け、この三月頃には手術も希望をもって受けることにした、という報告の電話がかかって来た。
 
 軽飛行機の方は、クラブ全体がある会社に買取られた形で、そのため今までの家族的雰囲気がすっかりなくなり、かわりにフライトの料金が跳上がった。それでも続ける、という程のお金持ちでは、ふたりともないので、彼女はクラブを抜け、私も一応籍はまだクラブにあるが、会社側の考え方が変わらない限りフライトを楽しみに行く気は、今のところない。鹿島の飛行場へ行って、軽飛行機で飛べる範囲は、現在私達ふたりの間にある距離の何分の一かを考えると、乗物などなくてもスカイスポーツの楽しみより大切な友情が、 夜空を電波に乗って駆けめぐるのが目に見えるようではありませんか、社長さん。

(平成元年一月)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?