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姑から聞いた話

(平成三年三月)

 まだ姑が今のように呆けてしまわないころ、この近くにある姑の生れた家にお墓参りかなにかで出かけた姑を迎えに行ったことがある。足もしっかりしていたので多分八十才になる前のことであったろうと思う。根当の中でもとくに「田向かい」と呼ばれるところに姑の実家があり、今何軒か並んでいる家々はほぼ半円を描いて並んでいる。その円の中が田んぼになっていて、どの家も裏が田んぼに向かい合うようになっている。表の通りは車がすれちがうことはむずかしい幅でいまだに一部しか舗装されていない。その通りの左側に家が並んでいて、右側は墓地を含む山林になっている。土地の人は「でえ山」と呼んでいる。「でえ山」のかげになっている道は、夏は涼しくずっと上のほうにある木々の枝の間から光が細切れになっておりてくる。雪が降ると、それがいつまでも残っているような暗い道である。
 根当には「根当要害」といわれる遺跡があるらしい。先日図書館で初めて知った。記述はごく簡単なもので時代も場所も特定できない。

根当にあり、今山林と変じ松柏繁茂するも、濠塁の遺形歴々たり。昔時、鶴松因幡一に三河守道鉄之に住しと、和約巳に破れ又田余の砦を修め、塹を根藤の砦にうがつ。因みて根当よ云ひしなりと古記に見えたり。


 その歴々たる跡も、この文が書かれたころからは相当年月が経っているらしいのですで消え失せていると思われるが、勝手な想像、 願いを述べるならば、この遺跡は「でえ山」にあるものと思いたい。 通りの山側の円がいちばん出っぱっているあたりにひとつの石碑が立っている。その前を通りかかったときに、姑が「ニコウの惨劇」 という話をしてくれた。
 「ニコウ」というのは、おそらく日本の中の地名ではなく、中国かと思われるが、先の要害と同じく時代や場所がはっきりしない。 ただ、時代に関しては姑のよく知っている人がこの惨事で死んでいるということらしいので、それほど昔のことではない。おそらくは支那事変でのできごとではないかと思う。手足をそれぞれ四頭の馬に縛られ、鞭をくらった馬はそれぞれの方向に走り出して、縛られた人間はどのような状態で死に至るかということは、考えただけでも恐ろしい。そういう刑罰をその姑の知人、多分血のつながりのある人は受けて死んだのだと言った。
 「でえ山」にある石碑は、よく読んだことがないのでわからないが、わた しの考えでは太平洋戦争の戦没者の慰霊碑ではないかと思う。一度めがねを持って行ってよくよく確める必要がある。
 姑は背丈に応じた歩みでわたしの早すぎる歩をセイブしながら、この話をしてくれた。「サンゲキ」と発音しないで「ザンゲキ」と発音した。
 
 17世紀のロシアのコサック叛乱の指導者ステンカ・ラージンも、最後にはモスクワへ連れて行かれて拷問にかけられたすえに馬によってからだを裂かれるという処刑を受けて死んでいる。
 最盛期のラージンは今でも歌われているロシア民謡で知られる。ペルシャにたいする勝利をモスクワ政府にも認められていた。
「母なるヴォルガよ、30年の間お前はわたしを育んできてくれたのに、わたしはこれまで何もお前に捧げなかった。今こそお前に最上の贈り物を捧げよう。」と言ってペルシャの姫君を両手高くさしあげて河に投げ込んだと伝えられている。
 18世紀半ばにルイ15世を殺そうとして失敗し捕えられたフランソワ・ダミアンもやはり四つ裂きの刑を受けている。
 しかし、人間の腱というものの強さを過小評価してはなるまいとカール・B・レーダーはいう。前もって相手の関節を切っておいて初めて成功する処刑である、と。

 昨日、病院にいる姑のつきそいをした。話があちこちに飛び、唐突に出てくる話題をこちらでうまくつなぎ合わさないと、とくに縁戚関係には疎いわたしには継目が見つかりにくいのではあるが、ふたたび「ニコウノザンゲキ」の話が姑の口にのぼった。
「ニコウノザンゲキって知ってべ?」
「え?ああ『ニコウノザンゲキ』ね。いつか聞いたことがあるね。あの馬に手足を縛って走らせるっていう話でしょ?」 もうそこから姑は涙声になって先を話す。
「こんなことになるとわかっていたらよおく見送るんだっけとなあ」
処刑された人が誰なのか、見送りに手を抜いて後悔したのが誰なのか、その人たちは姑とどういう関係にあるのかがいまだにわたしにはよくわからない。しかし、姑の話には事実を伝える者に独特の迫力があり、たとえ呆けていても、ずっと時代を遡ったことがらに関しては「ザンゲキ」のみに限らず、 自分の家を建てるためにその土地を、毎日地ならしをした人のことや、二番目の義姉が下から二番目の妹を背負って行って、駅で柿の種(といっても今売られているおつまみのあられではなく、果物の柿の実の中にある種である)を買ってきた話など、茨城弁そのままで話されることごとを、わたしはお盆の上に載せておきたいような気がする。 なぜといって、それらはわたしが経験できなかった時代の日本の歴史そのものであるからである。

※尼港事件
ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレで発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。ニコラエフスク事件ともいう。
あまりに残酷な事件であったため別々の馬で両足を引き裂いて殺害されたなどの話が昭和になっても多く伝えられることとなった。

Wikipedia


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