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芋の煮えたも 御存知ない

(平成三年七月)

 つい最近買った広辞苑(第三版)を見てみたら「月夜」の項に、この不明
のかるたの意味が載っていた。ただし、ここでは受け身になっている。

月夜に釜を抜かれる
 月夜に釜を盗まれる意から、甚だしい油断のたとえ。

 つまり、月の出ているほどの明るい夜に厨房器の中でもたいせつな(あるいは大きく重いという意味かも知れない)ものを盗まれるほど不用心なことをいっているらしい。
 ここで問題なのは「抜く」という動詞に盗むという意味があるかどうかということになるが、同じ広辞苑で見てみるとそういう例はこのかるたの一例にとどまるらしい。

 原稿をノートに貼ってからもう一度読みなおしてみて、「芋の煮えたの御存知ない」のところでハタと目が止まった。 たしかこの絵はお皿に乗せられたふかしたさつまいもが描かれていたと記憶している。これまでなんの抵抗もなく、たいして疑問に思わずに過ぎてきたお芋にたいして敬意を払うべきかとふたたび広辞苑のお世話になる。

芋の煮えたも 御存知ない
 物事に無知またはうかつなことをいう。

 「煮えたの」ではなく「煮えたも」である。
ずっと間違って覚えていたことになる。 意味にはたいして影響ないが、「も」のほうが強意にとれる。
 もうとっくに芋は煮えているんだよ。 そんなことも知らないのかという声が聞こえる。したがって「御存知ない」という敬語には明らかに軽蔑の意味が込められていることになる。
 芋は、絵札ではさつま芋であったが、一概にさつま芋だけとは限らない。 北海道の人は「芋」と聞くと「じゃがいも」を頭の中に思い浮べているだろうし、東北の人は里芋を想像するであろう。関東あたりまで来るとどの芋も 一応手にたやすく入るから、このかるたのを描いたのは(あるいは描くことの指示をしたのは)関東以南の人である可能性が強いということになる。

 この、ある「うかつな人」がどういう場面に出てくるということについて、もう少し考えを進めてみたい。
 社会生活をする上で集まって何かすときに必要とのひとつに食事がある。現代のように分業が進んでいなかった社会では(いろはかるたは江戸時代に作られている)お葬式だからといってお弁当屋さんからお客手伝いの食事をとったわけではなかろう。いまでも田舎では何事でも、というわけではないが、とくにお葬式のときなどは近所の人達が賄いから接待までを手分けしてする。
 そういう中には気の利く人もいればトロい人もいる。〇〇さんが顔出しに見えた。そらたいせつなお客さんだ。早くざぶとん、いや、お茶の用意だ、とあたふたしているところで、トロい人は何をすればいいのかわからないままそのへんをウロウロするばかりである。「トロさん、〇〇さんに芋の煮付け、持ってきてさしあげて」とだれかに指図されても、 トロさんは、とにかく皆が集まるそうなので行かなきゃ悪いくらいの心構えで来たものだから、どこに何があって支度などの程度まで進んでいるのかさっぱりわからないので、 素っ頓狂な声でこういう。
「へえ?芋の煮付け?そんなものがあるんですかい?」。
ついでながら、わたしはこういうトロさんタイプの人はどこにもいなくてはならない人だと思う。こういう人がいることによって采配をふるうの手腕は冴え、目に立ち、彼も大いなるやる気と自信をもつに至るのである。

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