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礼について

(平成六年三月)

 白水社が定期的に送ってくれる出版案内誌のコラム欄にこういうことが載っていた。
「さる囲碁の名人の言に、名人位にふさわしい三つの条件があり、一は頭のよいこと、二はよく勉強すること、三は礼を知ること。一、二は当然としても三はややひとひねりした言であり、よほどの偽善者のいうことのようにも思えるが、これは、礼儀が正しければ師のおぼえめでたいということではなく、ひとつの道を極めるに必要な精神の傾きという意味ではないか。」
 後半にはG・マルケスの小説に出てくるアラブ系の青年の、腹から飛び出した腸を手で押えながらいつもに変わらぬようすで顔見知りの家の中を近道するために悠然と通る例、また久保田万太郎が赤貝のにぎりをのどにつまらせながらも、その場では吐き出さず手洗いまで自分で行こうとしたが途中で倒れ死に至ったという例が書かれていた。礼を守るには、ときに命と引き換えということになるという結びになっている。
 死んだ松田優作という俳優の映画で「よみがえる金狼」という作品がある。ラスト・シ ーンは女に刺され、出血を押えながら空港に向かって歩くがついに倒れるという設定になっている。着ているものも、もちろん歩くようすもそれほどの重傷を負っているようには見えないというところは、古来の日本の武士道に通じるものがある。
 これらの例から考えると、どうも「礼」とは「誇り」とか人間としての「尊厳」というようなものに置き換えられるような気がする。一歩間違うと「エエカッコシイ」になり、「武士は食わねど高楊子」の負け惜しみにさえつながるものではないだろうか。
 囲碁の名人の条件と限らず、人間が人間としての高い尊厳を保つためには、先の三つは 不可欠のものである。しかし、頭のよいこと、というのはもう生まれつきの部分が多く、これはある程度の諦めをもって臨まなければな らない。あとからつけ足すことが不可能な分があまりにも多過ぎるのである。それに比べると二、三は後天的に付加することは可能である。「スペインの平原に雨が降る…」と練習すれば田舎の訛りが直るというミュージカル もあるではないか。問題はよい先生に巡り会えることであろうか。
 この出版案内のコラムのところをスクラップしてA氏の車の中に放り込んでおいた。 彼が囲碁が好きな以上、興味のない記事ではなかろうし、彼がこの三つの条件をある程度満たしているとわたしが認めていることをそれとなく知らせる意味で置いて来たわけである。しかし、条件を満たしているからといって彼が名人になれるわけではないことは言うまでもない。
 「逆、真ならず」ということがある。囲碁の名人の条件さえ備えていればだれでも囲碁の名人になれるというわけではなく、条件は揃っていてもなかなか名人などにはなれるものではないらしい。 それでも「色を好む。ゆえ に英雄なり」の例ほどには極端で自分に都合のよい「逆」説ではないことは確かである。

 ごく最近の新聞に今年の新人の棋士の記事が出ていた。中には十五才という、顔写真を見るとまだほんの子供というような人もいた。A氏から話を聞いたことがあるが、やはり先生の家に家族同様に住み、それこそ勉強だけでなく礼まで教わるのであろう。そのようにしてもトップに立てるのは所詮ひとりだけであり、一旦その座につくといつおい落とされるかと神経の休まるときがない。
 囲碁は原始的な闘争の頭脳版というようなところがあり、狙うならトップでないと意味がないが、最後にひとつ残った椅子に腰をかけられたからと安心してはいられない世界である。いつその椅子を飛ばされるかわからない。トップでなければ価値がないというのはまさにオール・オア・ナッシングということであり、これが先のコラムを書いた人の言う「精神の傾き」ということならば多少病的とさえ言わなければならなくなる。 カウンセリングの世界ではオール オア・ナッシングは危険信号なのである。
 礼とは反対の極にありながら、非礼とは違う人間の生きかたがある。この間の朝、聞いたラジオの話である。裏を見せたり、表を見せたりしながら、もみじの葉が散っていくということを詠んだ俳句が紹介されていた。
 裏とは他人には見せたくはない心やからだの醜さ、表とはその人が見せてもかまわないと思っている面、その両方をあからさまに見せながら人は死ぬ というわけである。ただそれだけでは意味がないが、その人がそういうふうに死ぬ、あるいは生きることによって、次の世の人の希望となることができるという。
 飛び出した腸が汚らしいから他人には見えないように自分の意を伴った手で隠して関係のない人達にはいつもと変わらぬ笑顔を悠々と歩くというのが礼なら、最も醗面をさらけ出してでも人の希望につながることを選ぶのは愛であろう。そして、わたしにはこちらのほうが向いているように思う。


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