見出し画像

(平成三月九月)

 時実新子の本といっしょに佐藤愛子の本も買った。中はちっとも見ずに、ただ佐藤愛子の書いたものだからという理由だけで。題だけはチラと見た。「こんなふうに死にたい」。
 読んでみて、あの意気のいい愛子叱咤がほとんどなくだれが書いても同じ文章だというような書きかたで拍子抜けした。しかし、スタイルがそうだからといって内容にまでがっかりしたわけではない。
 人が健康や死について書いたり考えたりするのは、間違いなく年をとった証拠であり、それが切実であれば切実なほど痛ましい。愛子さんがこの本で書いているのは「霊」、 それも成仏できないでいる「浮遊霊」といわれるものにとりつかれる話である。彼女の実体験であるだけにポルターガイスト現象もまさに事実であろうと信じる。彼女は多少オーバーに表現はしてもウソは言わない人であると勝手に思っている。
 わたしの母は妙という名で、その名をつけたのはわたしたちが「ちっちゃいばあちゃん」と呼んでいた、わたしの曽祖母である。22日は妙見さんの縁日であって、母が22日に生れたからということで「妙」とつけた。妙見は冥見から転じた語であろうと推量する。すなわち、眼には見えないが、神仏が常に衆生を見て守護するということである。その曽祖母はいわゆる霊能者であったという。
 わたしにはしなびて文字どおり小さくなってしまったおばあさんの姿しか記憶にはなく、どんな声でどんな顔でどんな性格の人であったのかはまるで覚えていない。母の話では、とくにPRしなくても曽祖母の超能力は音に聞こえたようで、どうしても治らない病気やどうしても見つからない失せ物など、困っている人はしょっちゅう訪ねて来ていたという。また、両手にそれぞれ筆を持ち左右対称 「南無妙法蓮華経」とひげ題目を書いたという。その場所まで行かなくとも、相談に来た人の家の間取りから庭のようすまで手にとるように見えるらしく、 どこそこにこういう物が置いてあるだろう、それをどかして清めれば云々という具合でだれもその千里眼には敬服したということである。
 世の中にはこういうことをまったく信じない人と信じる人がいるが、信じない人はほんとうは信じたほうがすべてのつじつまが合うと思っている。

 愛子さんの本の中には美輪明宏氏が出てくる。彼もまた霊能者である。そして、偶然に日蓮宗であるのを知った。母の家も父の家も日蓮宗で、両親は仏前で結婚式をあげている。母は曽祖母の影響が強く、何かあるとすぐにお題目を唱えた。それでかどうかわからないが、母もときおりは超能力まがいのことをして見せてわたしたち子供に多少の畏敬の念をもたらせた。母は伊勢の生れで、神道にも重きをおいている ようで、「だれも見てんでも神さんが見てはる」とよく言った。母には台所にもお便所にもどこの箇所にもそれぞれ神さんがいて、その場所を支配しているという考えが常にあり、大勢の神さんたちと日蓮上人がどういうふうに母の中で妥協しているのかまったくわからない。
 そういう母から生れたわたしは洗礼を受けクリスチャンになっているが、わたし自身もやはり超常現象としか思えないようなことを何度か体験していて、わずかにではあるが曽祖母の血を引いているのかとも思う。さあ、そうなるとこんどはイエス・キリストが入って三つどもえになっている。混練状態である。しかし、霊そのものはひとつの現れかたしかしないのが、受け入れるほうが三つも袋を構えているので、逆に面くらっているのではないかなどとつまらないことを考える。
 
 もうひとつ、この本の中で印象に残ったのは、愛子さん七百年の間玄海の海をさまよっていた蒙古の兵士の霊にとりつかれたときのことを、実は悲壮な体験なのにおもしろおかしく愛子流の仕立てかたで書いていたのだと告白していることである。これを読んだとき、これまでわたしが実に爽快だと思って読んできた愛子さんの文章の裏にあった悲壮な思いを初めて、なんとうかつにも初めて知ったのである。 そうだったのか。彼女もやはり…。
 まともに書いたのではあまりに生々しく読み手に不快感を与えるだろうからと、わたしもたいがい加減しているが、「まだまだ未熟ですっ」と愛子さんに叱られるほどのうかつさである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?