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神話の理不尽性

 神話というのはどうしてこんなに理不尽な話が、ごくなんでもないように書いてあるのだろう、という疑問がわたしを強く捕え、どんどんつきつめていくうちにフレイザーの「金枝篇」(未開社会の神話・柔術・信仰に関する研究書)を読むことになった。もともとは「古事記」「日本書紀」にその端を発しているのであるが、以前聖書を読んだときにもやはりそういう感じを抱いたことがある。ギリシャ神話においても同じことがいえる。東西を問わず、神さまはわがままなものとみえる。
 さて「金枝篇」を読んで、フレイザー卿という人は、ちょうど広大なお芋畑でたったひとつ、ネミの森のアリキアの司祭というお芋を掘り出したために、それに連なるつるをたぐっていくうちとうとう畑じゅうのお芋を堀り出すはめになってしまったのではないかと感じた。 ごくろうさま、といいたい。
 わたしが知りあいの本屋さんにたのんで手に入れたのは、岩波の五冊の文庫本で、よその国についてはともかくも日本に関する記述をみると、ややオーバーかなという程度で、かなり確かな根拠に基づいて書かれている。どの項目にも興味深い記事があるが、昔から「怖いものと汚いものは誰も見たい」といわれることから、わたしも例外でなく、全篇のなかで最も凄惨な記述と思われるメキシコのとうもろこしの女神に捧げるいけにえのはなしは数回読んだ。人間はかくも残酷になれるものなのである。だいたい女の皮を剥いで、それを窮屈な思いで身につけて大勢の人の前を歩くなど理不尽この上ないではないか。ほかにも一年間はさんざん「いい思い」をさせておいて時が満ちると石の上にあおむけに寝かせて、その心臓を取り出すなどというひどいはなしなど、この類いの記事は枚挙にいとまがない。
 ともかくも、この本の中でやはりおもしろいと思ったのは第五十五章の「厄災の転移」というところで、ここには未開人はもとより近代化されたヨーロッパにおいてさえ「迷信」がおおいに生きていることが記載されている。この章を読んでわたしはわたしの母が常日頃いっていた数々のタブーや、ときに大まじめで実行した「おまじない」を思い出さないわけにはいかない。
裸でトイレへ行くときは、タオルでもいいから何か羽織る。でないと脇の下が臭くなる。
ミミズにおしっこをひっかけないように。大切なからだの一部がはれる。
女の子はほうきをまたいではいけない。お産が重くなる。
柱に釘を打つときには、ひとこと断りをいってから。 「ごめんなしてえな」
ひとつのものをふたりの箸で同時につまみあげない。
夜口笛を吹かない。蛇を呼びこむことになるから。
身内の者が亡くなったときには三日間は針をもってはいけない。
夜にわとりの鳴き声をまねてはいけない。 もしまねてしまったら「水、水、水」と三回唱える。
夜に爪を切ってはいけない。
お墓参りをしたときには、 転ばないように細心の注意を払うこと。もし転ぶと足が腐る。
まんじゅしゃげ(彼岸花)の花はいけてはいけない。
藤の木は庭に植えてはいけない。 不事がある。
仕立て物をしていて、片袖だけをみごろにつけて床についてはいけない。
寝るときにはたとえ真似事でもいいから、簡単にみごろに縫いつけてから。
道ばたに死んだ猫をみつけても、決して情けをかけてはいけない。 その霊が乗り移るから。
着物を決して左前に着てはいけない。
炊きたてのごはんに水をかけて食べてはいけない。
お茶碗によそったごはんにお箸を突き刺してはいけない。
 今思いつくだけでもざっとこれだけは難なく書きつらねることができる。 もっとよく思いだせばこの倍以上の「べからず」を母にごく小さいころから折りにふれ、ときに当り教えられ、注意されて育ってきたのでここに列挙することもできよう。
 このほかにひどく印象深く、不思議な気がするのが「おにぎりのおまじない」である。 子供の熱がなかなか下がらないときに、炊けたばかりのごはんでおにぎりをつくり、熱に苦しむ子のからだじゅうを撫でるようにして、「さあ、これをあげるからこの子の体から出て行ってぇくんない」と声に出していい、ひとしきりそれを続けてから、そのおにぎりを紙に包んで外へ出て、思いきり遠くへそれを投げる。そして決して振り返らずに急いで家の中へはいる。これで熱が下がるというのである。母にいわせると、からだに取りついていたのは、「餓鬼」でおなかがすいている彼におにぎりをごちそうして、病気といっしょに出ていってもらうとのことである。
 施餓鬼文(餓鬼道で苦しむ衆生に食事を施して供養する)というお経はわたしもそらで覚えて知っている。それを唱えて病気が良くなるなら、そこいらじゅうのお医者さんはみんな看板を下ろすことになってしまうが、いわしの頭も信心から、ということばもある。
 フレイザーは母の教えまでは取材しそこなったとみえる。 しかし、「全技篇」に集められているさまざまの呪術や風習は、まさに親から子へ、子から孫へと、太古から連綿と伝えられてきたもので、生活そのものに密着しているものといえる。 現代においてさえ、 昔からのいいつたえをないがしろにしては生活のどの断面も見ることはできない。
 ハイテクのここまで進んだ今日でも、結婚式の日取りを決めるに必要な最初のものは、暦であって当事者のスケデュール表は決して暦に優先されることはない。
 わたしがときどき配達を頼まれるT工務店は、日本でも有数の大企業であるのに、毎月一と一五日には神棚のさかきを新しいものに取りかえる。工事のすべての手配などコンピュ ーターが人に代わってしてくれるような進んだ 会社であるのに、である。このことについ T工務店の社員の人に質問をしてみたことがある。
「神さまが安全を守ってくれると本当に信じているのですか?」
「いや、わたしは無神論者ですが、これはひとつのけじめですかねぇ。やっぱり何か絶対的なものを信じたいじゃないですか」
「誰が?」
彼のいうところによると、会社が工事を請負っても実際に動くのは下請け、孫請けの人達であって、当然元請けである会社の指示に従うが、元請け会社がそういうふうに神棚を祭るようなちゃんとした会社であるから、という一種の無言の威厳のようなものを与えることによって心理的に行動をセーブさせる効果があるとのことである。ここでは毎朝、始業前にカセットレコーダーで従業員全部がラジオ体操をする。その音が風に乗ってわたしの家まで届く。
最終的には人が生きていて、人が信じて、人が具体的に動くのである。 科学万能の世の中ではあるが、科学だけでは人はもちろん生きてはいけない。人には心があり、心はこれそうです、と明らかに示すことのできる物体ではないところにおおいに考察の余地がある。わたしが「理不尽」と感じたいろいろな場面も、人が神を信じることに始まり、神が絶対のものであり続けさせるためには必要な条件であり、古事記や日本書紀にみられる「現人神」の起こす理不尽な行動は、神性の延長線上にあるものではないだろうか。

(平成元年四月)


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