見出し画像

殺す相手

(平成六年五月)

 テレビで「象の時間、ネズミの時間」 を主題にした動物行動学をわかりやすくしたよう番組を放送していた。クイズ番組ではあるが、なかなかススンだ知識まで取り入れて企画されている。
 からだの大きさにかかわらず、一生の心拍数はどの動物もだいたい一定していて、その数は約15億回だということである。人間だけがこの計算に合わないのはよりたやすく生きる環境を作ることや進歩する医学によっているが、その根本となる知恵やものを考える力を持っているからである。わたしとしては「持っている」ではなくて「与えられている」と考えたい。
 この番組を見る前の日に、このごろうるさく飛ぶようになってきたハエを叩いていたとき、ふっと考えたことがある。まだやや小さめのハエが何組か交接しているのがいたが、それを叩くときには一匹だけを叩くときより何倍かトクをしたような気になった。それらをその時点で殺すことは、殺さないときよりも事前にその何百倍かのハエを殺したと同じことになり、成虫になったハエを叩くことを思えば、一度でかなりの手間を省いていることになるからである。
 人間が同じ状態で、つまり交合の最中にだれかによって殺されるというような場合は、道ならぬ恋の結果になることが考えられるが、当の本人にすればそれでも本望と思っているかも知れない。それはそれでいいではないか。幸福の絶頂から、途中のいっさい面倒な諮門なしに命を絶たれるならば、時間も無駄にならないし、心に葛藤を起こしたり良心に苛まれるヒマもない。 
 ハエには心などなく、ただ本能があるだけだと思っているから、人間の立場から見れば、交接中であろうとなかろうとせいぜい殺す手間くらいまでにしか考えがいかない。
 わたしが考えたのは、ハエなどの昆虫を殺す対象がどの程度の大きさになると恐れや抵抗を感じるようになるのか、というその限度である。人間の身長を160センチとして、 ハエはだいたい体長5ミリかそこらであるから、300分の1くらいのものにはほとんど抵抗を感じないで殺すということに なる(人によってはムシ一匹殺せないという人もいるが、そういう人はこの際問題外にする)。
 対象をもう少し大きくしてゴキブリくらいだとどうか。大きいのは五センチもあるのもあるが、それでも三十倍ほどのものである。さらに大きくしてネズミなどはどうか。昆虫から哺乳類に推移していくのはしかたがなかろう。 日本にはそれほどの大型の昆虫はあまりいない。ネズミの体長を十五センチとすると、ここで約10分の1にまで比率が上がってくる。ネコとなるとその三倍くらいはあるから比率は3倍から4倍とさらに上がってくる。
 その人の性格にもよるであろうが、だいたい比率が一桁になるとたいていの人はなんらかの抵抗を感じながら殺すということになりそうな気がする。なるべくなら命のあるものをゆえなく殺すということからは逃れたいが、なりゆき上しかたのないときもある。
 たとえば戦争。未来に予想される戦争はマ ン・トゥ・マンで殺し合うような古典的な方法にはよらない可能性もあるが、現在紛争のある地域での戦争の状態をみるとまだ接近しての殺し合いが行われている。数キロも先にある軍事基地を飛び道具で攻撃する分には人はそれほどの抵抗を感じないに違いない。それは目のあたりに人の死ぬ現場を見ないことによっている。 砲撃の直後、その現場へ行って自分のしたことの結果を見れば、彼は自分と同じ種の生き物が今まさに死のうとしているところを心に抵抗なしにはいられないはずである。「これが戦争だ。だからしかたがない」と自分に言い聞かせなくてすむ人間はむしろ少ないはずである。あるいは彼はすでに戦争によって人間の本来の心を失ってしまっているのかも知れない。善悪を判断する心が 麻痺してしまっている。とくに個人でなく、集団で行動するときにはその麻卑の度合いが大きくなる。自分と同じほどの大きさのからだを持つ見知らぬ人間が、そこで今死のうとしている。これをなんの感慨もなく見ることのできる人間がはたしているだろうか。
 わたしがお店でハエ叩きを振りまわすときには、これが人間だったら…というような想定は決してしないが、ハエ叩きをおいて考えるとなると、話がここまで発展するという例である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?