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ドライバー

(平成六年一月)

 ドライバーといって何をまず思い浮べるだろうか。車を持っている人は「運転者」であろうし、ある人には「ねじまわし」かも知れない。またゴルフをするにはティショッ トのクラブと思い浮べるであろう。
 いずれの場合にも「ドライブ」という動詞の持つ要素が含まれていて、「前におし進める」という動作を伴っている。
 カウンセリングで言うドライバーもやはり同じ要素を持っている。行動やことばに表れるその人の感情を「駆り立てるもの」という意味になる。それには
1、正しくあれ
2、努力せよ
3、急げ
4、人に尽くせ
5、強くあれ
の五つの項目がある。 人はその親から常にこのいずれか、または複数の価値観を受け継いでいてそれに従って行動するものである。
 一方、テニスの用語で「ドライブをかける」ということばがある。これはボールに前向きの回転を与えるようなラケットの扱いかたをいう言いかたである。ラケットを伏せるようにすると飛んできたボールにいわばねじまげられたような圧力がかかりボールに力とスピ ードが与えられるのである。こういうボールは受ける側にとっては落下地点から計るよりもずっと伸びてくるので油断ができない。バレーボールのサーブにもドライブ・サーブというのがある。
 交流分析でいうところのドライバーの意味は、車を「駆り立てる」というのに似ているとともに、多分にこの「ボールの意志にかかわらずに働く外的な力」の要素が含まれている。
 ドライバー・チェックリストというのがあり、自分でチェックしてみるとわたしの場合は「正しくあれ」と「強くあれ」のポイントが高かった。これに関する講義の入っているテープはかなり前に送られてきていたが、テープ・デッキのプラグを差しこむためのコンセントをこたつに取られていたためにずっと見ることなく過ぎていた。延長コードを使って別のコン セントからとればいいだけの話であるのに、ぐずぐずしていて講義を見るに至らなかった。
 去年の暮れの半ばごろ、突然の奇跡のようにわたしから「恨み」の感情が消失したとともに、わたしにかかっていた「正しくあれ」「強くあれ」というドライバーもまた自動的に消失してしまった。このことを実際に自分が消失していることを認識をしてから知識を得た、ということは何度も書くように「天の時の配分」である。なぜいつまでもテープを見ないでいたのか、この意味がいっそうはっきりと見えてくる。わたしが後で気づくようにと何者かが図ったとしか思えない。
 「正しくあれ」のドライバーは、たとえば夫がすぐにいろいろなことを忘れたり、決められたことを守らないで出かけてしまったりするとたちまちわたしの内にむくむくと腹立ちの感情をもたらしてきた。このことでこれまで何度イライラしたかわからない。そのときには大袈裟に言えばつばでも吐きかけたいような衝動に駆られ、怒りのことばを投げようにもさっさと立ち去ってしまう車の排気ガスになお怒りが増した。しかし今になると夫が同じ状態でまったく進歩がなくてもちっとも腹が立たない。それは自分の基準と天の基準が全然違うことを真に理解で真に理解できたからにほかならない。なぜ今まで無駄な腹立ちに振りまわされてき たことに気がつかなかったのかとバカバカしくさえなる。
 また「強くあれ」というドライバーもしかりであって「男のくせに…」という不満が先に立ちそこへ「女のわたしでさえ…」という自負が重なってドライバーはいっそう重いものになっていたのである。
 たくさんの回り道をしたが、結論はわたしの足もとにあった。これに似たおとぎ話がある。三国一の花婿を求めるネズミの話や夢で告げられた幸運を求めて遠くへ旅に出かけて結局は自分の故郷の自分の家の庭の木の根もとにそれをみつけるという外国のおとぎ話どである。わかってみると「なんだ」というところなど、下手などんでん返しも及ばないような複雑なカラクリの上に成り立っているのである。

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