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方位の捉え方

(平成五年三月)

三月十六日付のお便り拝見。
お尋ねの件ですが、知合いのイタリヤ人に問ひ合せましたところ、まずウーンと言って、
(一)日本のやうに「東西南北」といった決った言い方はない。
(二)二方位については「東西」「北南」 といって、これは決っゐる。
(「南北」とはいはないさうです)
(三)この四方位を一緒にいふとなると「北南東西」が一番普通かなあ。
といった返事でした。じっさい「東西南北」などとは言はずに「世界の四方位」といってあらゆる方角を示す場合の方が、僕の狭い読書や会話の経験でも多いやうに思はれます。
イタリヤ人といってもいろいろで、マストロヤン二のやうなのばかりじゃないでせう。思ふところをズバズバ言って日本人のやうな奥歯に挟まったやうな言い方をしないのは、さうですがね。
お元気で。
                               西本拝

原文のまま

 やはり西本先生はお返事を下さった。相変わらずの旧かなづかいと、独特の「もうひとつ言及したいところを押えた口調である。マストロヤンニが出てくるのは、わたしが手紙の最後に、「徹子の部屋」に出演したM・マストロヤンニの歯に衣を着せぬ物言いに、胸のすく思いのしたことを書いたからである。先生は日本人がいかに歯切れの悪い人種であるかを痛感しているのと同時に、イタリア人でもウジウジしたヤツがいるんだということを暗におっしゃりたいのであろう。
 わたしの質問はこのような返事でややスカされた感があるが、このことから、教会の先生の「ギリシヤ語における方位の言い順」に資料がないという件は、イタリアと同じく、とくに四方位をまとめて言うようなや必要がないから資料にも載せることさえないと推測される。それは、わたしが先生に聖書の中の「東方の三博士の礼拝」の場面で、「東方」がどのように書き表されているかをたずねたときの返事からも容易に想像できる。 先生は 「東」という名詞はギリシヤ語にはないといわれる。ではどうして東を表現するかというと、「日が昇る」という動詞をもってその方角を表すというのである。
 わたしはここで安易に「東西南北」といっているにもかかわらず、この漢字のもともとの意味や成立ちさえまったく知らないでいることに気がついて不安になった。漢字はもともと中国のものであるから、英語と文法の似ているこの国の考えかたは、もしかすると意外に西洋的なものかも知れないとも思った。 これは先の「梁塵秘抄」の「うつぼりの塵」が動き出すようなという古い中国のたとえが「ほとんど西洋的」であるとわたしが感じたことでも十分に推察できる。

 漢字の成り立ちを調べると、ほぼ予想どおりで、日本人的発想とはこういうものではなかろうと思われる。
 東以外の方角はともかく、東だけは世界のどこへ行っても、おそらく太陽の出る方角としてのことばが圧倒的に多いはずである。これは人間の根源的感情に基づいているから動かしがたいものであろう。ことばが自然現象を見た人間の観察から発生するのはごく当然であるような気がする。
 できれば世界各国の方角を表すことばの意味やその言い表す順序を知りたいところであるが、病盲に入ってもしかたがないので、 このへんで一件落着としよう。


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