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東西南北

(平成五年三月)

 最近本の貸し借りをする配水場のA氏は、主に岩波新書を読むことが多いらしく、わたしに回って来るのはほとんどこのテである。もっとも、貸し借りをするといっても、わたしが彼に貸すというのはごく稀なことで、わたしが勧める本をはい、そうですかと受け取ることは珍しい。 わたしのほうは向こうから来るものはすべて神さまが読むチャンスを与えてくれるものだと思っているから決して拒まない。彼は部屋にほかの人がいるときには、黙ってそっと机の引きだしから本を取り出し何も言わないでわたしに手渡す。
 今回もまた岩波新書であったが、何の気なしにその扉の部分を見ていて新発見に気がついた。
 扉には、本の題名や著者以外にはいつも同じ枠の絵がかかれている。今までとくに注意して見ることもしなかったが、枠の四隅にあたるところにクシャクシャした柄があるが、それはよく見ると人の頭部らしいことがわかる。さらにそれぞれのそばには文字が書いてあって、英語のアルファベットには違いないが、あまり見慣れた綴りでもない。その頭からそれぞれ隣りあった頭の方へ、中ほどにふくらみのある線が描かれていて、その線がおもに枠の役割りを果たしていることになる。頭には首の部分はなく、ほんとうに首から上の頭部しかかかれていない。それも真上から見たものであるので、よく注意しないと頭であることはわからない。頭らしきものも見えるが、いずれも頬をふくらませたところがかかれている。してみると枠を形作っている線はこれらのものから出た息を表しているということになる。ここまで見えてそばにある文字を見過ごすことはできない。わたしはすぐに英語の辞書を見てみた。
 まず右上の eurus。 ギリシャ神話の東風(南東風)の神となっている。その方向の風そのものを表す意味もある。これで出典があきらかになった。ほかの三つが東以外の風の神を表すことはいうまでもない。ヨーロッパとかユーラシアということばはこの風の神の名が語源になっていることも容易に推量される。
 その次に右下のを見たが、これは辞書には載っていない。その左、つまりページの左下にあたるところには zephyrus書いてある。これは完全に同じ単語はなく、詩語としてrusのない形が載っている。 そよ風とか徹風とあるが、どの方角から来るかは不明である。 boreasについて調べると、これは北風の意味のあることがわかった。つまりこれら四つの頭は、それぞれ風の神であり、 彼らから出ている息はすなわち風そのものである。道理で頬をふくらませた絵になっている。
 すべてが同じ形で英語の辞書に載っていないということは、ギリシヤ語かラテン語である可能性が強い。そのどちらかは教会の先生に聞くのが最も手っとり早い。先生はギリシヤ語の教授でもある。さて、そう思い立つとすぐにも実行したくなるのがわたしの悪い癖で、時計を見ると十時は過ぎていたが、電話をかけてみた。お留守であった。
 しかたなく次の日に持ち越すことにしたが、わたしには新たな疑問が湧きだした。人間の目というものは、左から右、あるいは時計回りに視線が動くのが自然であると思う。これは英語や数字の横書き、あるいは時計を日常見ているものにとってはあたりまえのことである。 世界は広いから、横書きにもかかわらず右から読み書きするという国もあるが、その数は少ないはずである。 これば人間の利き手に右が圧倒的に多いということとも関連しているが、文明が発達するにつれて文字が生活の中で重要な働きをしてくるそのスピードに、人間のそれを書いたり読んだりするスピードもついていかなくてはならないという必然的な問題から生じているで あろうことはたやすく想像できる。しかし、今は人間工学について考えているときではないので、これは別にゆずる。わたしが問題としたいのはその方角の順番である。どこを起 点とするかで多少違っては来るが、もし右上から始まるのであれば、東・?・?・北という順になり、本来の位置からは九十度ずれているものの正しい順で書かれていると思える。
 しかし、これを絵や図でなく、ことばとして言い表す場合にはどうであろうか。 日本では東西南北という。そして、南北ということばよりも東西が入っている慣用句が明らかに多い。古今東西、洋の東西を問わず、西も東もわからない等々。これはどういうことに起因するのであろうか。想像の域を出ないが、おそらく人間が昔からの天体の運行にたいして恐れの念をもっていることとおおいに関係があるのではないだろうか。
 日本で東西南北の順で言い表す方位を、よその国ではどういう順で言うのであろうか。これがわたしの疑問である。とりあえず、中国では「トン、ナン、シャー、ペイ」東南西北と日本とはやや違う順になっている。それでも 東が初めに来ることには変わりがない。 この扉にかかれているのがギリシヤのものであれば、そのギリシャではどうなのかを先生に関くことができる。 英語ではどうであろうか。
 次の日の朝、先生は綴りを読みあげるわたしのことばに即座にこれはラテン語ですねと言われて、不明のzephyruは西からの微風、notusは南の風ということが先生のお持ちのラテン語の辞書によってわかった。あとから生じた疑問である順序について聞いてみると、残念ながらギリシヤ語におけるものは不明であるが、英語では慣用的に north south east and westということがわかった。東が初めにこないことは意外というほかない。方角に優劣のあるはずもないが、 国によって順の異なるのはなん らかの理由があるはずである。ふとイタリアではどうかと思い、そういえば西先生にはしばらくご不沙汰していることを思い出し、質問かたがた手紙を書いた。このときにわたしは方角を言い表す順を図に書いてみた。

 これを見ると日本とアメリ力ではまったく対照になる。 こういう結果になると何か意味ありげにも思えてくる。 西本先生は律義なお人であるから、必ず返事をくださるはずであるので、ここ一週間くらいは郵便屋さんのバイクの音に敏感になってしまいそうである。

付記
 これは人間工学の範ちゅうにはいることかも知れないが、たとえばガスコンロを点火するときには、逆時計まわりにひねるように設計されている。右利きの人にとっては不自然動きで、この不自然さをとおして点火したことにたいする意識を喚起させ、消火しないといつまでも「何か忘れ物をしているような」 気持ちを持ち続けるように仕組まれているのだという。わたしは左利きであるので、逆時計回りはさほど気にならない。 点火は左手でするからであるが、そのためであろうか、よく煮物を焦がして鍋から煙が出るまで気がつかないでいる。

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