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殺す相手 追記

(平成六年六月)

 立花隆の「生、死、神秘体験」の中に河合雅雄の加わった養老孟司との対話も載っているが、その中で養老が13才の少女の堕胎手術の結果取り出された胎児について話していることがある。三ヶ月くらいでこの世に出てきた「もの」は九センチくらいの大きさではあったが「これはヒトだ」と養老が直感できたものであり、それを解剖学者である彼が 「処理」するのは「明らかに自分が殺しているのだ」という感じがあったという(これはオーストラリアでのことであったと書いてある)
 これを読むと、わたしが先に書いた「大きさで判断する殺すときの抵抗感」というのは間違っているということになる。大ざっぱに10センチのものだとすると人間の15、6 の1であるから、倍率は二桁であり抵抗はな いはずであるが、養老はおおいなる抵抗を感じている。これはその対象が同じ種であるからである。つまり同種のものを殺す場合にはその大きさにかかわらず抵抗を感じるということになる。人間だけが感じる抵抗という条件がつく。動物の世界では同種同士の争いはあるが、意志をもって殺すことはまずない。食べるために強いものが弱いものを殺すという場合には完全に異種であり、いわゆる「とも食い」は例外的な行動であることが多い。
 立花は人間を「サルとロボットの間」の存在としていて、河合雅雄は「自然に反する」 存在としている。 わたしはどちらかと言うと河合先生の定義がぴったりしているように思う。 それは、人間世界では殺人の行われない 国や日はないという特殊な行動パターンによってじゅうぶんに明らかだと思われるからである。この本の中では、この篇に限らず「いつからヒトをヒトと認めるか」という大きな問題が扱われている。 またその反対の極である死に関しても「いつからヒトがヒトでなくなるか」ということも同様に大きな問題である。脳死をヒトの死と認める方向に向かっているようではあるが、まだ完全にこれが成立したわけではない。これに関連して、わたしはやはり立花の書いた「脳死」を読まなくてはならないと感じ、 A氏にこれと、同じ立花の「マザーネ イチャーズ・トーク」、それにオリアリーの 「エニアグラム入門」の三冊を頼んだ。


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