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スペース連動企画:内田義彦『社会認識の歩み』を読む③~「はじめに」③

こんにちは。

本日(24/03/20)19時ごろから、Twitterスペースにて少しお話しをさせていただきました。このnoteは、その簡単な「まとめ」となります。この企画では、岩波新書の『社会認識の歩み』(内田義彦)について講読し、若干なコメントを添えていった上でnoteを残すという体裁をとっていきます。お読みくださいますと幸いです。今回読んだのは、p.5の11行目からp.9の6行目までです。

録音データはこちら からお聞きいただけます(5分56秒から話が始まります。ホッブスは『リヴァイアサン』でした!間違えてた。)。

今回は、大きく言うと学問的な認識の言葉と、日常世界での言葉とは、時として乖離ないし遊離するということが述べられていると思います。しかしこれらは、本来的には結びついている「べき」ものとされているように思われました。

本文では、雑誌の編集について例示されていました。個別具体的な「ハウ・トゥ」の側面と、ではその雑誌をどういうものにしていくのかという、理念に近い側面とがある。そのどちらも必要ではあって、一方だけということはあり得ないとされていました。

学問的方法論を学ぶという局面でも、それが「コップの中」での争いである内は問題にはならないとしていますが、

学問方法論のから回りが困るのは、そういうことが学問の世界であると、学問方法論の勉強が、日常の世界でおこる問題を、どうしたら学問的に追求できるかということと、完全に無縁になる。つまり学問方法論をいくらやっても、方法論的思考が日常の世界に生きてこない、それが困るのです

内田義彦『社会認識の歩み』p.8

とあります。ここで提起されているのは、学問とは日常生活に役に立たなければならないということなのですが、では、その「役に立つ」というのはどういうことなのかが、これからこの本で説かれることであると記憶しています。次回以降を進めていきたいと思っています。


今回はここまでといたします。お読みくださいまして、ありがとうございました。それではまた!



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