見出し画像

いま、読書会とは② 【追記あり】

こんにちは。

私は読書会について、「ねぇ、聞いてよ。この本おもしろかったんだよ」から始めるコミュニケーションの一環であると考えています。前回の「いま、読書会とは①」では、そうしたことを示唆したつもりでいます。続く今回からは、読書会が切り開く地平について、少し考えていきたいと思っています。おつき合いくださいますと幸いです。

結論めいたことを先に申し上げます。読書会という「場」においては、人はほぼ必ず、「新たな自分」と出会い直すことができます。それは、「思いがけず行われてしまう深いコミュニケーション」を通じてなされます。まずそこでは、ふだんなら話さない/話せない話題について、コミュニケーションが展開されます。同時にそれは、予想外の深度でなされるのです。つまり、読書会でのコミュニケーションにおいては、「広さ」と「深さ」の両面での達成がなされるということなんです。「本を通して」なら、それが可能であるのは、まさに不思議としか言いようがありません。

これはつまり、コミュニケーションの質的な向上が図りうるということに他なりません。しかしそれは、「いつでも」「必ず」起こることとは言えません。ある「条件」が必要です。その「条件」とは、その場に「聴く」人が介在しているということです。

いまここで、私は「聴く」の文字を当てました。別に「聞く」であってもいいので、以後は「きく」と表記することにいたします。ここでの「きく」は、①注意深く、②丁寧に、③興味と敬意をもって「きく」ということであるとしておこうと思います。もちろん、そうした「きく」を、四六時中していると疲れてしまうので、時々に発動させればいいのです。読書会は、そうした「きく」を発動させ、トレーニングするのにはうってつけの「場」であると思っています。そう、「きく」は漫然と、自然にできるもの「ではない」のです。少なくとも、意識することは必要です。ただ、訓練と慣れで、意識するというスイッチを、わざわざ入れる必要がなくなることはあると言えます。象徴的な言い方をすれば、それは全身全霊で「きく」ということになるかと思っています。次からは、その「きく」を発動させるために、あるいは、それができるためにはどうしたらいいのかを考えてみようと思います。

まずは、その前提とマインドについてです。人の話を「きく」にあたって前提としておきたいこととは、人は(自分のことであっても)話をしなれてはいないということです。それは、口べたという言い方はあっても、口上手とはあまり言わないとことからもわかろうというものです。つまり、あなたがこれから/いま聞こうとしている話者は、おおむね「口べた」なのです。それはつまり、あなたに「きき上手」であることを要請していることと、ほぼ等しいと言えましょう。もっとうまく話せ!ではないのです。だって、その話そうとしている「あなた」は口べたなんですから。そう前提してしまう方が、実は精神衛生上よいことではないでしょうか。口べたさんと相対していると思っていれば、その「あなた」が上手に話せなくても許せるってもんです。しかしまあ、既に1300文字ほど書いてしまいましたので、今回はここまでとして、③以降を別途書くこととしたいと思います。最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。それではまた!

【24/02/22追記】

読書会では、「喋りすぎ」さんもずいぶんと見受けられることを思い出しました。これには、司会進行役の方が工夫して対処するしかないのかもしれませんね。この稿での「口べた」さんとは、口ごもるタイプの口べたであって、喋り過ぎてしまう口べたもまたあるのだということを失念しておりました。一連の投稿で扱える予想はしていないのですが、いずれこの件についても、検討を加えられるようでありたいと思っています。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?