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『帰り道の思い出』

久保田ひかる

 つるりとした白い壁の中に銀色の四角い枠が嵌め込まれて、ガラス窓が外を切り取っている。窓から程近い電灯が光の線を描いて、やや遠くに見えるパチンコ屋の看板は流れるそぶりもなく凝り固まっている。
 僕は電車に乗っていた。珍しくイヤホンを忘れてしまった。スマートフォンのバッテリーが空近かった。

 田舎を走っていく電車にはほとんど人もいない。向かいの列の端に禿げ上がった仏頂面のおじさんが大きく足を開いていて、逆の端にはやたらと目のきつい女性が長い爪を器用に避けながらスマホを叩いている。

 帰ったら、何をしようか考えた。まずは夕飯を作らなきゃいけない。それから母親を風呂に入れなきゃいけない。僕に父はなかった。早くに死んだ。父の保険金はあったが、母は一人で働いて僕を高校に通わせてくれていた。でもその母も一ヶ月ほど前に腰を壊して家で寝込んでいる。
 僕は母を風呂に入れるのが嫌いだった。嫌いなんて言っていられる立場じゃないのは分かっている。だから僕は勿論毎日風呂介助を文句言わずにやるし、なんだったら優しい言葉もかける。でも嫌なものは嫌だった。母は今年38になる年だ。僕は母が21の時の子だった。
 誓って言うが僕は母を性的な目で見た事などない。しかし、母の体は僕が未だ本物をまじまじと見た事のない女性の体でもあった。やや硬い皮膚とその下に感じる肉、それからこれくらいの年代の女性特有の3本目の腕の妙に艶っぽい形。感触が意識の上に上がってくるたびに、視覚が相手の形をなぞるたびに、体が知っていることと頭が知っていることとの間で気持ちがゲンナリする。総合的に言うなら本当に心の底から嫌だった。
 嫌になる理由は、もう一つもっと自分勝手なのがある。

——そんな事を考えていたら、僕の車両にも車掌さんがやってきた。電車の先頭の方から、緑色の腹を揺らしてぬとぬとした体液を滴らせてやってくる。後ろからパートのお姉さんがモップを持ってやってくる。どうしてこんなに不便なシステムなんだろうと思う。パートのお姉さんが確認するでもいいし、車掌さんを別の人にしたっていいじゃないか、そう思って幼い頃にまだ生きていた父に尋ねてみた事があった。
 父は「社会ってのは複雑でね。なんでこうなんだろうおかしいじゃないかって思う事のほとんどには実はそうじゃなきゃいけない理由があったりするんだ」とそのような事を言っていた。当時の僕はあんまり答えになってないような気がした。今この年になっても同じように思うけど、父が濁した理由は分かる。要するにあの人もなんでそうなってるかよく分からなかったんだ。

 向こうに座っているお姉さんのところに車掌が行った。お姉さんは、爪の長い指で器用に鼻を摘みながら反対の手で切符を差し出していた。後ろについているパートのお姉さんがマスクの下でちょっと苦笑いしてるのが目でわかった。あれくらい若いお姉さんで、血縁もなかったら僕は性的に捉えても良いんだろうかと考えた。社会が許さないという結論はすぐに出た。
 車掌はヌメヌメとした触手を伸ばして、お姉さんの切符を受け取った。緑色の体液がちょっと撥ねてお姉さんの髪についた。お姉さんはギョッとして飛び退こうとした。その拍子に後ろに倒れ込んで、一瞬パンツが見えた。車掌は緑色に染まった切符をお姉さんに押し付けるように渡して、お姉さんの服に染みをつけた。
 次はこっちに来るかと思ったけど、ブザーが鳴ったので車掌は出て行った。パートのお姉さんの拭き残した緑色のヌメヌメが蛍光灯の光を受けていて、電車が揺れるたびにテラテラするのを僕はボーっと見ていた。

 大体最初のブザーから3分後、2度目のブザーがなった。僕はカバンから慌てて赤色のサングラスを出した。窓の外に見えていた黒々した山脈が一瞬だけ光に当てられて白飛びして、次の瞬間には全体が翡翠色の閃光に包まれた。

 閃光の中を巨大なプラナリアみたいな生き物が何匹も流れていく。隣の家に住んでいる幼馴染は小さい頃からこの巨大プラナリアの素揚げが好物だった。僕も嫌いではないけど、母が嫌いだから我が家の食卓には出たことがない。母は明るく優しい人だ。僕はそう思う。よく母の好きなものの話とか、楽しかったこと、良いことを教えてくれる。だけど母は暗い話をする事を毛嫌いしている節があった。だからこのプラナリアが食材だって事も、結構人気なファストフードだって事も幼い頃の僕は知らなかった。幼馴染が母親と二人でウチにお昼を買って遊びに来てくれた、確か小学6年生の時。その時にこんな食べ物があるって初めて知った。当たり前みたいに食べる幼馴染を見て僕はちょっと恥ずかしい思いがした。賢い子供で通っていた僕にとって、世間知らずみたいに見られることは何よりもプライドが傷つく事だった。それが、あまりテレビも見せがらないような母の教育とどちらが鶏でどちらが卵の関係かは今もよく分からない。

 窓の外のプラナリアたちが少しずつ減っていく。サングラス越しにも外の色が変わっていくのが分かった。水色の夜に変わったことが分かった頃、僕はサングラスを外した。派手なお姉さんはサングラスをかけたままだった。禿げ上がったおじさんは外していた。だから僕はおじさんも父親が死んでいるんだなと下世話な事を考えた。

 僕の背後の窓をコンコンと叩く音がして、振り返った。見ると外には細い目でにっこりしているお兄さんがいた。お兄さんは長い髪を一つに束ねていて、それが電車の勢いの中ではためいていた。僕は窓を軽く開けて、水色うさぎの柔軟剤に似た強い香りを吸い込みながら、「この車両はまた車掌さん来ますよ?」とお兄さんに向かって言った。言いながら、乗ってくれると良いなとちょっと期待していた。
「ありがとうありがとう」と言いながらお兄さんは薄く開いた窓から車内に滑り込んできた。外の香りを吸い込みすぎたのだろう。お兄さんは額に汗をしている。僕も慌てて窓を閉めた。向かいのお姉さんが軽くこっちを睨んでいた。おじさんは鼻の下を伸ばしていた。

 お兄さんは僕の隣に座り込んで、白いレースのスカートをバサバサ仰いだ。お兄さんはパンツを履いていなくて、その中で怒張させていた。ニコニコしながらするそんな動作がなんとも言えず爽やかで、健康的に見えて羨ましくなった。
 自然と僕の思考は再び母の風呂に行き当たった。母を風呂に入れるのが嫌な理由のもう一つに僕の自慰行為があった。高校生になって僕はそれを覚えた訳だが、この半月ほど自慰が上手く出来なかった。女性の事を想像しようとする時、僕が知っていて最初に参照されてしまうのが母の姿になっていた。そうすると気が萎えてしまう。性器だってすぐにあやふやに霞んでしまう。でも発散された訳でもないからまた催す。催しては失敗する、そんな自分の事を僕はなんだか哀しい生き物だと思っていた。不健康だ。それに対して、スカートのお兄さんは素敵だった。

——ブザーがなった。気がつくと窓の外には再び電灯が線をなしていた。向こうの方に緑と白のコンビニエンスストアの看板が固定されている。そういえば、ずっと凝り固まっていたはずのパチンコ屋の看板はいつの間にか消えている。
 やがて電車は駅に停まった。僕はまだ降りない。一組の老夫婦が乗ってきた。真っ黒い顔をしたおじいさんは飛び出て垂れ下がった両目を両掌で支える様子が漫画みたいだった。おばあさんの方は、フラダンスの衣装みたいなのを着ていて垂れ下がった両乳房を両掌で支えていた。夫婦は似ると言う。僕は彼らがお似合いに見えた。
 老夫婦は座席に座らずに吊り革を掴んで立っていた。甲高い声で賑やかに会話している。するとスカートのお兄さんが近寄って行って会話に入った。おじいさんはフランス語で、おばあさんはエスペラント語を話していた。お兄さんはテレパシーを放出していたけど、観念的すぎて何語か分からなかった。

 電車は再びドアを閉めて発車した。ブザーがまた一つ鳴って、今度は電車の後ろの方から車掌さんがやってきた。すぐにドアの前で立ったまま談笑している三人組が確認を受ける事になった。おじいさんは切符を渡してから確認している車掌の緑色のヌメヌメを人差し指で掬い取った。ペロリと味見をして顔を顰めてから、両方の目玉に塗り込んでいた。だから帰ってきた切符は代わりにおばあさんが受け取った。おばあさんはパートのお姉さんの事をジロジロ舐め回すように見てニヤニヤしていた。二人の番が終わったらお兄さんの番だった。
 どうするつもりだろうと思っていたが、特に何をするでもなく、切符を持っていないと開き直っていた。だからおじいさんとおばあさんは怒ってお兄さんのことを一つ殴って一つ蹴り上げた。お兄さんはそれから車掌の触手で服を全部剥ぎ取られて、服の中に金がないかチェックされていた。その間のお兄さんはちゃんと両手を地面と水平に伸ばして両足を揃えて待っていた。車掌は満足して服を後ろに捨てた。
 僕は本当に訪れたチャンスにドキドキしてしまった。お兄さんが乗り込んでくる時に既に予想はしていたけど、まさかこんなにそのままになるなんて、胸が高鳴って、恥じらう気持ちを捩じ伏せて、これから妄想が具現化する現場を食い入るように見やった。
 パートのお姉さんは捨てられた緑色のヌメヌメまみれのワンピースを拾い上げて、それを一度座席に置いた。それからパートのユニフォームを、サンバイザー、ポロシャツ、スラックス、肌着、ブラジャー、パンツの順番で脱いでいった。お姉さんは労働から解放されるのが嬉しいみたいで、全裸になったまま一度大の字を書くようにジャンプした。
 それから、お兄さんとお姉さんはそれぞれの衣服を交換して身につけた。お兄さんは恥ずかしそうに頭をかいて、それからお姉さんのお腹にワンピースの上からキスした。

 車掌は、次に禿げたおじさんのところへ行った。おじさんは車掌に向かって軽く会釈をした。車掌の方もそれに応えて、すぐに離れた。どうやらあの禿げたおじさんは偉い人らしい。パスを持っているんだな。僕はちょっとびっくりした。
 最後に来たのは僕の所だ。僕は高校生だから通学定期を持っている。ズボンをたくし上げて、ふくらはぎに縫い付けた定期券を見せた。車掌は満足そうな形をして、それから触手を伸ばしてきた。本当はあんまり触りたくなかったけど、僕は学生らしく握手をした。

 緑の車掌とその後ろについたお兄さんが車両を出て行った。するとお姉さんがこっちにスタスタ歩いてきた。
「君、福興好高?」
「あ、そうです。福興好高の生徒です。」お姉さんはOBだった。そら豆色のブレザーをこのお姉さんも着ていたんだなと思ってドキドキした。
 お姉さんはお尻のポケットからスキットルを出して何かを一口飲んだ。
「僕も飲む?秘密だけど」お姉さんが渡してきたので僕は受け取った。匂いを嗅いでみたら、アルコールと乳の匂いがした。
「ウォッカの母乳割り。美味しいよ?」
「いただきます」間接キスだ。僕はドキドキした。

 ついに電車は僕の最寄りの駅に近づいた。山前田駅。無人の駅舎は小さい電球の明かりに照らされただけ。僕が電車を降りる時、お姉さんがまたねと言ってくれた。派手な方のお姉さんがニヤニヤしてるのが見えた。
 改札を出ながら、星空を眺めた。田舎は星がよく見える。僕はそれを繋いでさっき見たお姉さんの裸座を作った。 
 母が家で待っている。早く帰って夕飯を作ろう。両側を田んぼに挟まれたコンクリートの道はまっすぐに長く続いていた。

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