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努力とは苦しむことである

職業柄というか、今までに生きてきた環境が競争の世界であったから、努力ということを考えなければならないことが多かった。

最近では、脱昭和の意識からか「”適切な”努力は報われる」とか、「苦しむことは努力ではない」ということが多い。データを元に云々と。

個人的に何かできるようになるとか、苦手を克服するとかであれば間違ってはいないのだけれども、競争世界の文脈では、これは根本的に間違っている。
これは血液型占いの話と同じである。
仮にこれが正しいのであれば、世界の4分の1の人が常に同じ運命を共にすることになってしまう。一度でも「願いが叶うかも」なんて占いが出てしまったら大変なことになる。

同じ血液型のAさんとBさんがいたとしよう。
Aさんが何かしらの願い事をした時に、Bさんが「Aさんの願い事は叶うな」と願ったら、どちらかの願い事が叶えばどちらかの願い事は叶わなくなってしまう。

努力もこれと同じである。
”適切な”努力をしたとて、競争相手だって同じように”適切な”努力をしているのだから報われるとは限らない。
なぜあなたと同じように適切に努力をしていると考えないのか。

言ってみれば”適切な”努力とは、競争の世界においては”当たり前”の準備に過ぎない。業界にとって”当たり前”の準備をして報われるとは、とんだ出来レースでしかない。

さらにいえば、「適切な努力」が指し示しているのは何かといえば単純な話で、”質”ということである。
それを、行動量1行えば、どれだけの成果が得られるかということである。
そうであればこそ、「適切な努力」と同時に”コツ”が語られるのである。

”コツ”とは、先人の知恵であり”質”を高める隠し味である。

それでは、勝敗を分けるものは何かといえば、”適切な努力”を苦しむほどまでやれているか(に加えて時の運)ということになる。この場合の適切な努力とは、結果に対して適切なアプローチをいうことは大前提である。

結果の期待値は、最もシンプルな形であれば

質×量

で考えて良い。

「天才とは努力を努力と思わない人」というのは、そういうことである。気づいたら最高効率で他の人の行動量を上回っていた。ただそれだけ。
質か量かなど愚問に過ぎない。質も量もである。どれだけ素晴らしい「適切な努力」があったところで行動しなければ意味をなさないし、四六時中、楽器を吹いたところで数学ができるようになるわけではない。

結果が全ての競争の世界において、努力とは、苦しむこと。
苦しむ前までは「当たり前の準備」に過ぎない。

競争をしないでいいのなら、別にそんなことはないけれども。


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ぜひご一読ください。


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