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デンマークの教育をみていて感じること:その2・親が子供を叱らない - フラットな大人と子供の関係

前回は、学校での面談の風景から先生と生徒・子供との関係、そこで作り上げられる子供自身の自己肯定感・問題解決能力について感じたことを挙げました。

しかし、それだけではなかなか説明できないこともあるように思います。私の娘たちは、途中からデンマークの教育システムに入ったわけですが、同じ学校に通う低学年、幼稚部のもっと小さい子たちからそれを感じることがある・・・。

デンマークの幼児教育は森の幼稚園など独特なものがあり、のびのびと育てる気風があります。デンマークにおいて幼稚園は、基本的に「人生ってこんなにスバラシイ」ということを学ぶ場で、子供たちは自由にやりたいことを徹底的に遊ぶ場、と感じています。学校に入るにあたっての集団生活や必要な準備には、小学0年生という準備期間が制度としてあることがそれを物語っています。(デンマークの教育システムについてはまた次の機会に)

一方で、過度な自由やエゴは、時に大きな衝突(conflict)を生むことは周知の事実。だから日本ではと称して、親や大人は「それはダメ」という形で子供にやってはいけないことを教える。。。とても普通のことですよね?少なくとも僕はそう思ってました。
しかし、デンマークに来て、どんなに子供が駄々をこねたり、電車で泣いていても、親が子供を叱るという場面をほとんど見たことがないことに気づきました。
では、デンマークの子供は、どのように叱られない環境で、自由と責任を判断・両立し、相手への尊敬を身につけることができるのか、これはこちらに来てから長く考えてきたことでした。

デンマークに3年住んで、そしてこのコロナ禍の中、いくつかの日本と北欧・デンマークを比較するオンライン勉強会に参加する機会を得て、ようやくいろんな点が結びついて少し理解できた気がしてます。それを少しずつですがシェアしてみたいと思います。

子供を叱らない・相互に納得を得る努力

上にも書いたように、デンマークに移住して、感じたことのひとつに、日本と比較して「大人が子供を頭ごなしに叱るところを見かけない」という印象がありました。公共交通機関で子供が泣き喚こうが、親がその子を叱るところをあまり見ません。初めのうちは

「あぁ 周りを気にせず放任でのびのび育てるのが こちら風なんだな」

くらいに思っていました。しかし何度もそのような場面を見ているうちに、少し気づいたことがありました。
子供が泣き出したりすると、親は子供の目線に合わせてひと呼吸起きます。それから優しく子供に話しかけます。子供は今の窮状を一生懸命親に伝えようとします。親と子のやりとりがある程度続くと、まあそれなりに納得したかのように落ち着く子もいれば、次の駅で家族で降りて、ホームで続きの議論?を続けていたりしていました。

すべてがこの例ではないと思いますが、子供だからといって、一方的に叱られたり、強制的に手を引かれて連れて行かれる、というような場面にはほとんど出会ったことがありません。その代わり、親と子の関係においても、子供を一個人として、話し合いの中で問題を解決していく。そんな光景をよく目にします。

学校でも、先生に大声で叱られている、という風景は本当に稀だと思います。(僕の時代の日本ではよく見たように思いますが、、、今は違うのかな?)
集会などで人がたくさん集まるとどうしてもザワザワとなるのは、世界共通だと思いますが、そんな時、話をする先生は、ただ静かに待ちます。そして比較的早い段階から自然に生徒同士お互いに静かにするよう周囲に促しだします。そして静かになると、先生は必ず「ありがとう。おかげで大きな声を出さずに後ろの人まで声が届きます。では話しますね」と静かにしてくれたことへの感謝から話し始めます。

こんなエピソードもありました。これは最近、駅で起こったこと。中学か高校生くらいの若者が、一緒に電車に乗ろうとしたひとりの子をふざけて突き飛ばし、その子を笑い者にしていました。同じ学校の生徒なのか、反対側にいた若者たちも囃し立て、イジメのような感じに見えました。
すると、同じホームにいた年配の女性が「Excuse me」と若者の間に静かに割って入り、若者たちを諭しはじめました。若者たちとその女性が議論を始めると、そこに数名の他の大人も加わり、若者の言い分を聞きながらも、なぜその行為が認められないか、穏やかに説明をしていました。電車はその間止まってましたが、車掌は慌てたり急かしたりする様子もなく、その状況をただ待つような感じでした。しばらくの時間、議論が続き、そして、若干不服そうにしながらも、若者たちは突き飛ばした子とハグをし、女性とハグをし、他の大人たちとも握手をし、女性と一緒に車内に。その後、車内では若者たちはその関与していた大人たちと談笑していました。電車はその後何事もなかったかのように出発。
僕は正直その様子を呆気にとられてみているだけでしたが。。。

上記のような場面を何度も見ていて感じるのは、

「叱らない」は「放任」ではない
子供を社会の一員として対等に扱う
誰かに注意をする際には、必ず「なぜなら」を丁寧に付け加え、納得を得る
そのための議論と時間を惜しまない
Stay calm (何事も穏やかに)

そのような関係が大人と子供の間にもあるのではないでしょうか。

子供も社会の一員

よくデンマークの社会は、上下関係のないフラットな人間関係であると、良く耳にします。上下関係というと、職場の上司・部下の関係が思い浮かびますが、大人と子供、親子関係においても、ある程度このフラットな関係が当てはまると思います。友達みたいな親子、とはまた違うのですが、、、

叱らない、という選択肢は、実はかなり時間的に面倒なプロセスだと思います。「叱らない」「放任」はここではまったく別物です。強い言葉で叱ったり、怒ったりして小さい子供を黙らせることは時間的にも労力的にも簡単でしょう。でも、子供がなぜ怒られたのかわからないなら、また同じことを繰り返してしまうかもしれないし、子供だって怒られたくないから、怒られないように親や大人の顔色を見て行動してしまうかもしれません。
こちらの親子関係や大人・子供の関係で感じるのは、親や大人は、子供を一人の社会を構成するメンバーとして、対等な関係として、その意見を聞きつつも、それが受け入れられることなのか、そうでないのか、そうでないとするならば、どういう理由でそれが受け入れられないのか話し合いの機会を積極的に持ちます。子供はそこで自分の主張をする機会を与えられる代わりに、経験や知識に基づく社会のルールを親や大人から聞く。そのやりとりを介して、親も子供も一緒に考え、お互いの意見を擦り合わせ、お互い納得したところで次の行動を選択する。最初の公共交通機関で泣く子供の例なら、電車の中で話し合いがまとまれば、予定通り進むし、時間がかかりそうなら、一旦電車を降りてホームで落ち着いて話し合い、行くか帰るか考えよう。そういったことが日常の生活の中で行われているのを感じます。

また、議論や話し合いをする上で、

問題にしているのはあなたがとった「行動」や「言動」であって、あなた自身の「人格」を否定しているのではない

というのが大前提であるということ。関係がフラットでいられるのは、相手への尊敬や慈愛が根本にあるからだろうな、とも感じます。それを小さな頃から生活の中で感じる機会の多いこちらの子たち。こういった機会もまた、自己肯定感を養い、同時に社会に対する責任を身につけていく土台であるような気がします。

まぁ、日本人から見た感じで、ちょっと仰々しく書いてしまいましたが、おそらく、こちらの人はそんな深くは意識せずとも、長い歴史の中で普通に行なっていることなんでしょう。それが「文化」の違いなんだろうな、と感じます。また、上記に挙げたすべてに共通してるのは、

時間的・精神的な余裕があるからできる

これに尽きると思います。社会環境の違いは、元も子もないような感じですが(笑)
でも、ふと立ち止まって、人生において、何に時間を割くべきなのか、何が大事なのかを考えた時、、、忙しいで済ませてしまっている僕自身を振り返って、少し家族・子供や周囲の人との関わり合いを考えさせられています。

実は、何事も穏やかに (Stay calm) というのもこちらの人間関係形成には大事な要素で、なんとなくデンマークに住む人の共通した価値観であるように思います。それにもデンマークの歴史を含めた事情があるようで・・・。と、長くなりそうなのでやめておきます(笑)


取り留めのない文章になってしまいました。。。
でも、こうやって書いていて少しずつ自分の中でも整理がついてきている感じがします。いまは覚書ノートになってしまってますが、何度もこのアウトプットをしているうちに推敲が進んで、もう少しわかりやすくなっていければと思っています。

こんな拙い文章を、ここまで読んでいただきありがとうございました。
コメントでご意見やご指摘いただけると励みになります。

ありがとうございます。


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