まくら文庫

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伊豆修善寺で小さな本屋さんをやっています。気になった文章やショートショートを紹介していきます。

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  • ショートショート

    ショートショートをまとめます。

最近の記事

場の量子論

私はすべてが標準的な女性の話を聞いていた。 年齢も標準的、髪型も標準的、顔も標準的、スタイルも標準的、ファッションも標準的。 ものすごく魅力的かと言ったらそうでもない。 ものすごく性格が良いかと言えば、そうでもなさそうだ。 「雪取さんが朝会うたびに私におはようって」 そう言うとその標準的な女性はいやそうな顔をした。 「おはようってあなたに言うのね」 私はほとんど同じ内容を繰り返した。 「毎朝、私を見かけるたびに、私に挨拶をするんです」 女性は今にも泣きだしそうになっていた。

    • シャンプー泥棒~逮捕編

      たわしとは別の問題で私は嫌われていた。 私が嫌われていた理由を自分なりに分析してみると、(世の中でこんな哀しい行為はないが)生意気だったのだろうと思う。 私は大きなヘッドフォンを装着し、大きなパーカーを着て、パーカーのフードをかぶり、ギャングのような金色のアクセサリーを身に着けていた。 ヒップホップの詩人に憧れ、彼らの言葉をノートにメモし、彼らが社会に対して向ける牙を、私は目の前の人に向けた。 上手い言葉で悪口や軽口を叩けば、それは笑いになる予定であった。 でも私の言葉は

      • シャンプー泥棒~言い訳編

        私はその星でずいぶん卑劣な罪を犯し続けていた。 それは自分でも認める。 しかし、この世には善と悪だけでは区別しきれない複雑な立場や感情が溢れていて、私たちは物事を見た目や噂だけで善か悪かを判断してはならない、ということを心に刻み込んでいる。 そういうことで、私がした卑劣な罪は必ずしも悪の面だけではないことは心ある人ならば理解してくれるはずだ。 私の髪はたわしである。 厳密にはヤシの繊維ではないが、それでも私の髪はたわしなのである。 以前、黒人女性の髪の手入れはものすご

        • 言葉

          言葉というものは、自分の内側にある混沌としたものを人に見せられる形にして他者、あるいは自己に対して提示するものである。 幼い私はその行為そのものに恐れと恥じらいを感じていた。 自分の内側にある混沌としたものは、強大で、醜悪で、陰湿で誰にも提示できたものではないと感じたからだ。 そのときの私は「言葉=自分の内側の吐露」という単純な式を信じていた。 なぜそんな式を信じることになったのかは今となってはもう分からない。 だけど、「言葉≠真実」ということを知ったのはもっとずっと後の

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          10本

        記事

          夏物語を読んで思ったこと

          川上未映子著 夏物語 読んで思ったこと 私が大学生だったころ、大学の先生が川上未映子さんの「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」を配って、その文章を絶賛していた。 私は文学を志していたので、私と同年代の、そして女性が、まるで私とほとんどカテゴリーがかぶっている人が、私も認められたいと思っているような先生に褒められていたので、「ああ、もう私はダメなんだ」と落ち込んだことを覚えている。 それから時は経って、彼女は書き続け、 私は書いたり、書かなかったりを断続的に続けて

          夏物語を読んで思ったこと

          29

          女は科学者から説明を受けていた。 「あなたの妊孕性は30歳を境に急激に低下していきます」 女は持たされたメモ用紙に、「ニンヨウセイ」と書き、 「ニンヨウセイ?」 と科学者に質問をした。 「妊孕性とは、あなたのコピーを作る能力です。あなたは異性と協力することであなたのコピーを作ることが出来ます。残念ながらあなたの完璧なコピーではありません。あなたと協力者である異性との良いところが合わさったハイブリッドのようなものです。あなたのコピーはあなたの劣性を排除し、協力者である異性の優

          For sale: baby shoes, never worn

          あなたたちは切ない物語に涙する 世の中には秀逸な切ない物語作家で溢れている 物語を語ることこそが人間の最大の能力だと誰かは言う 私は切ない出来事が起こらないようにと布団の中で日々おびえている たった小さな変化が大きな悲劇の幕開けのように感じてしまう たった指先の小さな血がこの世の破滅の予兆のように感じ 耳に開けたピアスの穴が地獄とこの世をつなぐ通路の完成のように感じ 十字路の工事は今も続いている 優秀な悲劇作家はありふれているのだから きっと語られるべき悲劇は語りつくされ

          For sale: baby shoes, never worn

          聖金曜日

          大きな丸太を引きずって丘の上を目指す男たちが街に溢れる。 そして植物のツルで作ったお手製の鞭で自分自身を打ちながらパレードは進んでいく。 そんな混沌としたお祭りが開催されるらしい。 そんな噂話を聞いて、外国から来た人々はおびえて借りた部屋に閉じこもってしまう。 お店はすべて閉店。 レストランもお休み。 たのしいことは全部自粛。 外国から来た人々は水曜日の日にたくさんの非常食を買って閉じこもらなければならなかった。 街には音楽が溢れ、にぎやかな声が聞こえてくる。 少し

          聖木曜日

          誰もが 誰でもの 足を洗う よく歩いた足を 老いた足を 産まれたばかりの足を 憎きものの足を 仲間の足を 分け隔てなく 大きな金だらいを広げて 私は世界中の足を洗う 裏切った者の足を 信じぬくものの足を 私は足洗日の真っただ中にいた。 私は金だらいをぬるま湯で満たし、 少しの香油を入れ、 辺りを心地よい香りで満たした。 そのいい香りのするゼリーの中に 人々は足を浸けていく 私は彼らの足についた様々な罪を落としていく 何かを踏みにじった罪 何かを蹴飛ばした罪 何か

          夏の閉塞

          35℃の蒸し暑い蒸気が小麦色の肌をした人たちを包んでいる。 夏を選んだ女は後悔し始めていた。 女は家を好感した冬を選んだ男の言葉を思い出していた。 「もう一生夏が続くのかと思うと耐えられない。まだ冬の方がいいはずだ」 女はその言葉をばかげた思い込みだと一蹴していた。 女は冬の陰鬱さを知っていた。 長く続く夜、気分は沈み、本は読みつくされ、冬眠に似た生活を強いられる。 燃焼されるエネルギーの貯蓄はどんどん減っていく。 その減り様はまるで命を燃やし尽くしていくような感じがする

          冬の蓄積

          ある日の冬の朝、母親はうんざりしたように、 「お母さんね、もう冬に耐えられないの。お正月をみんなと一緒に過ごしたからもう勘弁してちょうだい」 と言った。 息子には母親の発言の30%も意図が読み取れなかった。 「うむ。何に対して勘弁をすればいいのさ」 と息子は聞いた。 母親は自分と息子にコーヒーを入れて食卓の上に置いた。 500mlは入りそうな自由の女神が描かれた大きなマグカップと200mlも入らないだろう眠り猫の小さな湯呑。 「お母さんね、冬が終わるまで南国へ避難しようと

          直接想起説

          「うーん、どうだったかな。上手く思い出せないな」 とJ氏は言った。 「思い出すのではないのです。その時どうだったかを確認するのです」 と博士は言った。 「ええ、確認しようとしていますが、上手く確認できないのです。実を言えば、興奮していてその時のことをよく覚えていないのです」 J氏は観念したようにそう白状した。 博士は首を横に振り、長いため息をついた。 「あなたはまだわかっていない。覚えているとか、覚えていないとかの問題ではないのです。確認するのです。いいですか。その時のこと

          直接想起説

          文学フリマ京都7

          https://bunfree.net/event/kyoto07/ 文学フリマに初出店した。 私は自分が何かを創作していることを隠しながら生きているので、出店はとても勇気のいることだった。 出店の結果、売れたのは4冊。 てへへ、と気まずい雰囲気を笑ってやり過ごしたいところであるが、私にとっては、 「売れなかった…」とがっかりするよりも、 「本当に売れた…。しかも4冊も…」と感動する方が大きかった。 私はその4人のことをありありと思い出す事ができる。 私の横のブースの

          文学フリマ京都7

          奇異鳥

          五煙草氏と五煙草氏の母親の兄(叔父)はお屠蘇を飲み交わしていた。 「ところで、折り入っての話って何でしょうか?」 と五煙草氏は聞いた。 叔父は、 「まあ、大した話ではないんだけど」 と言ってニュージーランドの地図を広げた。 「ニュージーランドは知っているか?」 と五煙草氏の叔父は言った。 「ええ、羊とチーズの国ですね」 そう五煙草氏が答えると叔父はぶんぶんと首を振った。 「お前のニュージーランド観はまちがっている!」 叔父はそう言って席を立つと、冷蔵庫からデザートを取り出

          T氏の懐中時計

          感染症対策のために、政府はガイドラインを発表し、腕時計ではなく、懐中時計を使うようにと推奨をした。 そのガイドラインが公表されると、政府はひとりにつき1台分の補助金を公募した。 そのおかげもあってか、今では多くの人々が懐中時計を使っている。 多くの人が使っているのは、ねじまき式の懐中時計でしょっちゅうねじを回さなければならなかった。 それに懐中時計を入れておくべき内ポケットやら胸ポケットやらのついたジャケットを着用しなければならなくなった。 ジャケットを着用する人が街に溢れ

          T氏の懐中時計

          お正月

          お正月。 五煙草氏は、母方の実家に来ていた。 母親の兄(五煙草氏の叔父にあたる)はやけに豪華なおせちを用意して上機嫌で待っていた。 「よく来たね。1年ぶりじゃないか?まったく君ときたら放って置けば正月が来るまで一度も顔を見せないのだから」 五煙草氏は70歳近くになった叔父に煙草の差し入れをした。 「いや、こんなのはとうの昔にやめたと言ったじゃないか」 叔父は煙草の差し入れにがっかりしたようだった。 「でも、ほら縁起ものですから」 五煙草氏は無理やり叔父の胸ポケットに煙草を差し