見出し画像

誕生日と命日

28年前の今日、私は誕生した。
先月、おばあちゃんは亡くなった。
おばあちゃんはどこへ行ってしまったんだろう。
私はどこから来たのだろう。

死ぬということは

死ぬとは悲しいことなのか。おばあちゃんは、既に他界している最愛のおじいちゃんのところへ行って良かったのではないのか。
私はおじいちゃんが死んだ時も、悲しいよりも安心した気持ちの方が大きかった。おじいちゃんが入院してた時、体があちこち痛そうで、しかも上手く喋れず、
おばあちゃんの名前すら忘れることもあって、見てて凄く辛そうだった。
まるで無理やり生かされているように見えた。
そんなおじいちゃんが亡くなってみんなが悲しんでいる中、私は「楽になれてよかったね」と思っていた。
おじいちゃんを亡くしてから、元気だったおばあちゃんはみるみる元気が無くなって、弱々しく、最後はおばあちゃんがおばあちゃんじゃないみたいだった。
まるでもうすぐ死ぬのを悟った猫のように、母が言うには亡くなる3日前から
身の回りの掃除や整理整頓を始めたらしいのだ。
死を悟ることはできるのだろうか。また、その時何を思って何を見るのだろう。
死ぬということは絶命すること。物理的には消えてなくなること。
魂は生き続けるというけど、魂の数は最初から一定数決まっているということか。
そうすると新規の魂はないということになる。前世も何も無い魂は存在しないのか。そもそも「魂」というものは生き続けているのか。
臨死体験者はいると思うけど、実際に「死」を経験した人はいないはず。
本当のところは死んでみないと分からない。

遠くから光が差して、ゆっくり光に引き寄せられる

天に昇っていく、天国へいくとよく言うけれど、そんなパトラッシュの最終回みたいな世界だけじゃないと思う。
深い眠りにつくような感覚で、見渡す限り暗闇だけどなんとなく安心するような空間にいくのかもしれないし、全くの「無」かもしれない。

死んだらどこへいくのか、この疑問自体無意味なのかもしれない。
けどおじいちゃんとおばあちゃんは今一緒にいる気がする。
二人は今、どこにいるのだろう。
私は誰かの続きなんだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?