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歌舞伎に填まったあの頃が懐かしい…🍃。。🥺💘

今日は歌舞伎の話、特に大好きだった18代中村勘三郎こと元勘九郎ちゃんについて話をしたいと思います。

昔、今から30年程前にたまたま亡くなった勘三郎(昔の勘九郎。以後勘九郎と言います)の夢をある日見たのです。

夢の中で勘九郎と私はどういう訳か恋人になっていて、以来すっかり私は勘九郎のファンになってしまったのです。

私の頭の中では勘九郎=歌舞伎。

全く歌舞伎になど興味がなかったのにどんどん歌舞伎に填まっていったのです。

それまでの私は無知で歌舞伎の事など何一つ知らず、1から冊子を買っては勉強したり様式美について学んだのです。

その頃はまだインターネットもない時代。何処でどうチケットを買っていいのかも分からず、調べると関西地区大阪では年2回道頓堀にあった芝居小屋である「中座」で催されていたのです。

我が家から大阪までは一時間の道のり。電車に乗って中座まで行きチケットを買いました。

当時空前の歌舞伎ブームが起こっていて、中座に着くと多くの人がチケットを買い求めるために並んでいました。

その時、私は運よく前列2列目のど真ん中のお席が取れ、生まれて初めて歌舞伎を近くで見ることができたのです。

初めての歌舞伎鑑賞に一人ではなんなので義母と小学生の娘の3人で行ったのですが義母は興味がなく、小学生の娘に至ってはあくびの連続。

確かにまだ10やそこらの娘には理解しがたく退屈意外の何物でもなかったことでしょう。

歌舞伎の公演は昼と夜の部があり、昼の部だけでも幕間まくあいをいれても観終わるのに最低4時間くらいかかります。

一番長い幕間の時に前もって劇場の中のレストラン🍴があるところはそこを予約。大概の方は事前に近くのデパートやお弁当やさんでお弁当を買って持ち込みます。

歌舞伎は4時間長い時間を通して1つの演目をする訳ではなく、出し物も色々あります。

例えば、
時代物(じだいもの)
元々歌舞伎が最も栄えた時代である江戸の町民にとって人気のあった武家や公家に社会に起こった史実を模したもの。江戸時代より古い年代に起こった事件を登場人物の名前を変え、創作されたもの。

世話物(せわもの)
こちらは俗にその当時の三面記事にありそうな事件や人情もので観ていると引き込まれて役者の名演技に泣いてしまうのもしばしば。
江戸時代の当時の最も身近などこにでもありそうな人情味溢れる見応えのあるお芝居です。

所作事(しょさごと)
簡単に申せば、
舞踊や舞踊劇のこと。歌舞伎を観に行きますと最初にやる演目というより、箸休め的に演目の中間でやることが多く、気楽に楽しめるもの。
もともと舞踊そのものとして作られたものや、ある演目のなかの舞踊の部分だけを切り抜いたものなど単独の作品の舞踊がメインです。

そもそも歌舞伎は1600年代初頭、出雲の阿国おくにと言う女性が出雲から京の町にでてきて始めた「かぶき踊り」というのが原型。
当時、阿国は北野神社の境内や四条河原町に能舞台をまねた仮舞台を造り、念仏踊りという歌舞を披露したのが始まりらしい。 因みに歌舞伎の語源、それは「傾(かぶ)く」というところから発祥した庶民の寸劇である。

義太夫狂言(ぎたゆうきょうげん)
人形浄瑠璃から歌舞伎へ取り入られた演目。丸本物(まるほんもの)とも言われています。「竹本たけもと義太夫節」という語りによって物語が進行し、音楽的・様式的な演技や演出が特徴。(Internet参照)
この他に純歌舞伎、新歌舞伎があります。

詳しい説明はこちらを参照下さい⬇️

こうして、歌舞伎と一口にいっても色々な演目があり、観ていると引き込まれて填まっていきます。

宝塚は女性の西洋風歌舞伎と称しましょうか⁉️女性が男性役も全てこなします。

それに対して、歌舞伎は男性がすべての役(女性役)をこなします。

ただ男性が演じる女形おやま・おんながたは女性よりも更に妖艶で女性らしい所作が魅力的。その代表格が玉三郎。にしても、玉三郎も70を過ぎて色落ちました。

やはり、女形は若い役者がやってこその魅力で、近くで観ると白塗りされていても見とれてしまう程、ほんに美しい。

初老の男性役者が女形を演じると名役者なれど、私的にはグロテスクに見えて仕方がないのですが、演じ出すとガラリとイメージが代わり引き込まれる。流石名人芸と言うしかありません。

それもこれも全て歌舞伎の見所。

それぞれのお家にはお家芸や伝統芸があり、代々名前と共に継承され、それがまた歌舞伎の見所であり代表芸となっています。

さてさて、先の話の続きに戻しますが、何度か観ている内に私は勘九郎の後援会に入ったのです。

当時の後援会費は年間¥25.000。

高いように思われますが、実はその中に東京歌舞伎座での歌舞伎鑑賞分が含まれていて、その時は座席は指定できませんが観れるのです。

わたくしの場合は関西在住でしたのでそれにはほとんど行けず😢わたくしの代わりに東京の友人に行って貰いました。

関西では当時春、夏、秋の3公演があり、春、夏は大阪松竹座。秋と言っても11月の京都南座での顔見世興行。東西の役者さんが顔を揃えます。

本来公演回数はもっとあるのかもしれませんが、わたくしの場合は勘九郎が出るものしか観てませんので年3回に限定されたのかもしれません。

夏の出し物は怪談物や本水ほんみず物。

本当の水を使うので最前列にはシートが配われます。その醍醐味は凄まじく迫力迫るものがあり、夏の歌舞伎の一大エンターテイメントです。

勘九郎はとにかく何をやらせても群を抜く天才。歌舞伎の為に生まれた役者中の役者。
女形をやらせたら妖艶!
立役たちやくをやらせたらピカイチ。
(立役は女形意外の男役の総称。この役は老役ふけやく敵役かたきやく意外の善人の役を演じる幹部の役者のことを差します。)

時々、世話物では勘九郎独特のアドリブが入り、観客を笑いに誘うところは花形役者たる役者の貫禄と風格さえ感じた神芸に近かったように思います。

わたくしは後援会に入ると後援会事務所に盆暮れの届け物をしました。
勘九郎ではなくご苦労の多い事務所スタッフに贈ったのです。

流石に勘九郎には付け届けする方は多かったようですが、事務所自体に贈る方はいなかったようで、たいそう喜ばれて親切にされました。

そこでわたくしは事務所の方に頼んで日にち指定すると座席は選べないのですが、これ日からこの日までの間で一番前のお席を取れる日でお願いしますとお願いすると、ちゃんと一番前のいいお席を取ってくれるのです。それはとてもありがたく、かぶり付きで役者の手の所作や汗の滴りまでが見えて、観る側の醍醐味でした。

だいたい歌舞伎には大向うというものがあり、


大向うとは芝居小屋の向う桟敷の後方、舞台から最も遠い客席のこと。またそこに坐る客を指す隠語・通言。主として歌舞伎で用いられ、安価な席にたびたび通ってくる見巧者の客を指す。「大向うを唸らせる」といえば、そういった芝居通をも感心させるほどの名演であることを意味する。 Wikipedia参照

その方々は特別でご贔屓の役者が見栄をはると大向うが役者の屋号を叫ぶのです。例えば、わたくしなら『よー、中村屋』と…。彼らはほぼ常連なのでフリーパスで入れて貰えた時代もあったようで、彼らが声を掛ける事で芝居と見せ場が盛り上がり観客の感情も引き込んで芝居もマックスを迎えます。

で、わたくしは一番前のお席で女だてらにありったけの全身全霊で叫ぶのです。『中村屋~~~』と。

すると、その瞬間役者と目と目が合う。👀+👀💘
バキューン💏ってかんじです

当時の勘九郎は花形役者。今の息子たちは足元にも及びません。彼のファンは日本全国に何百万。いえ、それ以上だったかもしれません。

そんな中でわたくしというちっぽけな一個人を知らしめるにはどうしたらいいのだろうと考えたのです。

そこで思い付いたのが楽屋に黄色いバラ🌹の花を100本ではなくあえて50本をわたくしが見に行く日に届けるのです。

何故に黄色か⁉️
普通の人なら赤を贈るでしょう。

でも、それもあえて、ジェラシーという思いも込めて黄色のバラ🌹を…✴️

そして当日には必ず黄色のドレスか小物を身に付ける。それがわたくしという存在を知らしめる唯一の方法でした。

まだ芝居小屋が道頓堀の中座だった頃、どうしても勘九郎に届けたいものがあって、楽屋入り口でもじもじしていると楽屋関係の方がどうしたのですか?と聞かれて、事情を話すと上に上がって直接的渡してくださいという。

その当時古い芝居小屋の楽屋の階段は半間しかなく、2階はまるで迷路。間違って暖簾をくぐるとそこは亡くなった当時の八十助の楽屋。

スミマセン🙇💦

勘九郎さんなら隣の楽屋ですよと優しく教えて下さり、やっと勘九郎の楽屋へ…

その時私は中に通され、勘九郎がす~っと立ち上がり、『一番前で観てらっしゃいましたね。ありがとうございます。』と声をかけてくださり感激してしまいました。なにより大役者なのに腰の低さに驚き、真の役者とはたった一人のファンをも丁寧に扱う。素晴らしい対応に更にファンになりました。

下の写真はその時のものです⬇️

まだ中座の時の懐かしい写真です📸

それ以後も何度か楽屋見舞いをし、ある時は韓国の知人から頂いた乾燥高麗人参を煎じて持っていくと、勘九郎の奥さまから直々に奥さまの実名で礼状が届き、その時も感激いたしました。

主人の仕事の取引先の奥さまの接待に歌舞伎を使ったりと様々な数えきれない逸話がありますが、わたくしには勘三郎生前のよき思い出になりました。

今生きてらしたら、間違いなく人間国宝。人より早く人生を突っ走った勘九郎こと勘三郎さん。

3歳から歌舞伎の舞台に上がり、元々
梨園の御曹司。父方も代々歌舞伎役者。母は六代目菊五郎の娘で六代目菊五郎には息子がいなかったため、今の7代目は血縁にあらず。母は自分が女に生まれたことを悔やみ、息子を梨園の跡継ぎとして厳しく育てた甲斐があって息子は誰もが羨む名歌舞伎役者に…。

今は天国で息子たちの活躍をまだまだだと厳しく観ていることでしょう。心からご冥福をお祈りうたします🙏❇

最後に彼の演じた嵌まり役を紹介
『夏祭浪花鑑』『|梅雨小袖昔八丈
つゆこそでむかしはちじょう》通称「髪結新三」』親子で演じた『連獅子』『鏡獅子等々。まだまだある過ぎるくらいあるのですが、今は思い出したものだけを列挙。

最後までご覧頂きありがとうございます。。🥺💘

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