BFC5落選展感想 11~20

 リスト、こちらから拝借しております。この場をお借りして、落選展リストを制作された、kamiusi氏に感謝を申し上げます。

 一応、趣旨を説明しておきますと、落選展の全作感想を書いていく予定です。断っておきますが、私の個人用として書いた感想ですので、第一に私のために書かれたものとなっております。公開する以上、読んだ方に利するものになるよう配慮しておりますが、その旨ご了承ください。また、個々の感想の分量も、まちまちとなっています。

 以下、感想です。


11、「記憶の穴」白城マヒロ

 こういう作品も移人称というのだろうか。
ゆっくりと視点主が変容していって、その境界のない、ゆるやかな、地続きの感覚が好ましいと感じた。一方で、そういった点を差し引くと、この作品はとてもホラー的なのではないか、とも思った。
 語り手の変容は意識だけではなく、肉体にも及んでいることが分かる。身体は知らぬうちに傷付いていき、「わたし」が「わたし」を意識するまでもなく、別人に変わっている。


12、「夜のにじ」はんぺんた

 救いはどのような形であらわれるのか、考えていた時期がある。その答えの一つは、忘却だった。どうしようもない息苦しさから逃れる方法は、遠い時間の中に身を置いて、息苦しさを忘れることのできる位置まで流されていくことだった。
 だから、この作品に救いは書き込まれていない、と私は思う。
 「ぼく」は息苦しさの中で、もう少し踏ん張ってみることを選んだ。けれど、その美しさは、私にはまだつくり物めいて見えてしまった。母の姿は「ぼく」という煙の隙間から垣間見えるだけだから、読者にも、はっきりとその手を握らせてほしかった、とは私の勝手な願望。


13、「これから物語をつくる。」やつかさ

 小説は世界五分前仮設に限りなく近いところで生み出される。叙述は小説世界を確定していき、書かれた瞬間に、あるいは読まれた瞬間に定着する。
 今作は、そう言った世界に意味はない、と断言する。

人の意識の中の世界で人が生き続けることはできるのか

 という実験に失敗し続けている。それはつまり、意識の中の世界という確定されない世界、変わり続ける世界で生きていくことは、ひとまずできないという限界を示している。さらにその上で、生きることへの忌避感が書き込まれており、二重に、物語の生まれる余地が否定されているように思う。
 それを踏まえて思ったのは、こういったモチーフを、もっと綺麗な言葉で書くことができたはずなのに、それをしなかったのはなぜか、ということ。その答えは冒頭に既に書かれている。

「これから物語が始まる」という時。それは、不確定の世界である。それは、どんなものをも超えうる可能性でできている。どんなことでも起こすことができる……。

 とあるように、重要なのは文章が生み出されていく一瞬であり、それが文章として形を成した瞬間に、その場に在った意味は失われていく。そこに美醜は関係ない。
 ”男の身体が爆散する。”のリフレインは、その意味で必要があって、繰り返される。男の身体が爆散する、と書かれる一瞬に、男の身体が爆散するのだから、男の身体が爆散するという物語が生まれるために、男の身体が爆散する、と書かれる必要がある。


14、「夢こそまことと彼女は言った」夏川大空

 フィリップ・K・ディックの主題はアイデンティティの喪失だと、どこかで聞きかじった知識で、この作品を読むと、私と俺で二つに分かれた主体が、サナエという共通の客体を得ることで安定する、と読むことができる(かもしれない)。 ほかにも、古典とクリエイティブの二項対立を超越するのもサナエだ。

 師の葬式に弟子としてではなく一般参加して、特に弟子であることの何も求められなかったけれど、何も求められなくっても。  

 私は、師との約束を守りたい。

 まず古事記のもととなった神話を調べ、その元にはどんな信仰があったのか、起源は、なぜ日本の神は外国の神とは違うのか。

 このあたりの文章のテンポが独特で好きだった。特に、”起源は”の部分が。エッヂが立っていて、その鋭さが好きだ。


15、「シドニー郊外のバス停にて」高松けんしろう

 バスを待つ時間の一幕の会話劇、と書くと、どこか戯曲を連想してしまうのは過剰かもしれない。本当に他愛のない話をしているだけなのに、作品に違和感なく入り込めるのは、作者の技量が高い証拠なのだと思う。
 読んでいる会話から、次はこんな風に展開していくのだろう、という予測が微妙に当たらないけれど、期待を裏切らずに、興味を持続させていくのだから、すごい。
 初めは安いナンパかと思う。その猜疑心をサスペンスとして、上手くテンション(張力)させて、語り手の情報を開示していく。初対面のぎこちない会話の雰囲気から、最後、話が弾んでいく瞬間の噛み合うような、一瞬ギアが入ったという余韻を残して、終わっていく。佳いなあ、と思う。


16、「大通り」升宮生

 読んで、サバイバーズ。ギルトを連想した。
 語り手の心情の書き込まれた会話劇で、ところどころ、カイトと「私」のどちらが話しているのか、読み取りにくいところがあった。とはいえ、それを作品の瑕疵とは思っていなくて、それだけ二人の心情が似通っているからではないか、と思った。
 語られるカイトの心情を、恐らくは「私」もいくばくか共有しており、その為に、「私」はカイトが大通りへ向かうことを強く止められない。二人の間にあるわずかなすれ違いや、わだかまりは解消されず、「私」はカイトを見送ることになる。
 ラストは、カイトの背中を収めた写真に、カイトがどう収まっていたのか(「私」にどう見えたのか)を伝えてほしかったと思った。


17、「追憶の葬送」嘉村詩穂

 言葉が言葉を連れてくるのを楽しむ作品のように思う。
 浜辺焚き火星記憶館人形破片……
 ある種の連想ゲームとして造り上げられた言葉の世界、と私は読んだのだが、こういう作品はある問題を抱えているのではないか、と私も同じような書き方をして思った記憶がある(私の拙い作品と同列に扱ってしまうのは申し訳ない)それは、作品が記憶に残りにくい、ということだ。単純に私の書き方や記憶力、記憶の仕方の問題かもしれないが、こういう作品はエピソード記憶が働かず、意味記憶になっていく、と思っている。
 寿限無を思い出してほしいのだが、”食う寝るところに住むところ”の前後が何だったのか、すぐに言えるだろうか。多分、難しいと思う。
 今作はとても美しい言葉で固有の作品世界を造り上げている、と感じる。文章を読み進めるにしたがって、世界はその領土を広げていく。
 では、その領土を、人の内に長く深く留める方法はないのだろうか。というのが、今作を読んだ私の感想だった(関係ない話ばかりで、何度も何度も、申し訳ない)


18、「壁打ち」横道逸太朗

 私は中学時代、卓球部でカットマンだった。「武士道シックスティーン」を読みながら、卓球でも、こういう作品がないかな、とよく思ったものだった。その点でいうと、今作にも、やはり試合を書いてほしかったと思う。それは試合内容を、というより、二人の男が対立する様子を、という意味で。
 導入したシチュエーションと枚数がそれを拒んだように思える。雨宮が逃げ出そうとしたり、許しを乞うのはリアリズムだが、訣別ならば、もっときっぱりとしたものを、対立ならば、そこを飛び越えるパワーを期待してしまった。
 さらに言えば、今作がそこに収まってしまったのは、作品全体が過去に比重を置いているからではないか、と思う。
 まず、状況(シチュエーション)の説明が、猪原の内的な回想に終始してしまっていることが、もう一人の主人公であるはずの雨宮を弱くしてしまっている。そして、時間軸的な現在や、未来への展望もないため、過去が過去として孤立してしまい、清算に至らない。
 もちろん、これは勝手な願望だから、私の指摘は的外れでしかない。


19、「トリプレックス」巨大健造

 題名は、三つ組、三重の、という意味の英単語らしい。
 三つ子(とはまた違うだろうか)のような登場人物が、記憶の共有をしている。そのモチーフは野崎まど「死なない生徒殺人事件」を思い出させた。今作では、三つの身体に三つの同一人物の人格が宿っていて、語り手とは、三人が入れ替わりながら、交流しているため、「体験の私有」という概念まで出てくる。面白いアイデアと感じたが、作品はそこに比重を置いていなかった。
 三度、作品とずれた余談になってしまうが、今作は珍しく、読者に負荷をかけるような作品だと感じた(歯舌腕、照応体、彼人などの造語に始まり、登場人物の名前が、メヌ村、サヴォ島etc)。分からないなあ、と呟きながら読んだが、それは逆にとても魅力的な時間だった。この分からなさは読者への信頼か、はたまた挑戦か、私自身、今作を読めた(今作に限らず、的外れなことを言っていないか、と自問自答している)と言うつもりはないが、普段の読書体験とは異なる感覚をもらえた。このまま、突き進んでほしい、と勝手ながら思う。


20、「つぼみのおもうところ」只嶋どれみ

 出てくる単語をいろいろググったのだが、絶妙な表情の石像の語彙が豊富すぎて、笑ってしまった。日木山里の田の神サァ・小畠八幡宮の狛犬・ザルドス・モアイ像。その絶妙な表情の、絶妙な口元からしか発せられない音に注目した作品で、とても興味深かった。
 小説は言葉でできていて、言葉は文字と音のふたつの側面を持っている。西洋においては文字は、声の影という捉え方をするそうで、一方、表意文字である漢字を扱う私たちは、文字と音をはっきりと分けて、捉えている、ような気がする。思っていると想っている、パッドとPad、マチコとマツコ。書かれている文字と音の差異が、作品の中にほんとうに数多く、取り込まれている。

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