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映画『主戦場』裁判は裁判可視化の主戦場

ミキ・デザキの映画監督デビュー作となる作品で、日本の慰安婦問題を扱っており、現在の慰安婦問題に関連する人物のインタビューを軸に、アーカイブやニュース映像を織り交ぜた作品になっている。英語字幕版・日本語字幕版・韓国語字幕版が製作されている[注釈 1]。取材を受けた映画出演者5人が、合意なしに映画を商業公開されたとして民事訴訟を起こしているが、一審の東京地裁では請求が棄却された
Wikipediaより

映画『主戦場』裁判を簡単に説明すると、こういった経緯なのであるが、これだけでは済まされない真の主戦場は裁判所で起こっていたのだ。
まず、この原告となった著名人達は、このミキ・デザギなる人物から「卒業プロジェクトで慰安婦関係の動画を作りたい、研究の為に教えて欲しい。」と説明されインタビューに応じている。この辺り、実際に裁判を傍聴したtassさんのnoteに詳しく書かれているので参照して頂きたい。

デザキは原告の1人である、藤木俊一氏に対してメールで「学術研究として論理的で公平でインタビュー対象者に対して敬意を持つ必要がある。」と伝えてきた事もあり、藤木氏は相手が学生で修士課程を修了する為の学術研究という事なので、社会人として協力するのは当然と考えインタビューに応じている。
しかし、公開された映画は公平性とは程遠い、協力してくれた出演者を歴史修正主義者とレッテル張りし、揶揄した残念な作品となっている。
芸人のたかまつなな氏によれば、映画は「YouTuberのテンポで従来のドキュメンタリーではなく」「相手を馬鹿にしているような作り」「中立を狙ってないだろう」「悪意を感じた」「作りが雑」「バランスが取れてない」と酷評し、「歴史修正主義者ってバカだと思う。」「否定論者は感情論でモノを言う。」と感想を述べている。
全ての視聴者が同じ感想を持つとは言えないだろうけど、インタビューに答えた人達にとっては出来上がった作品が、当人たちの認識の斜め上をいく作品だった事は明らかだろう。
そしてそんな映画を裁判所はどう認定したか・・・

本件映画1全体を見れば、慰安婦について、「20万人」存在し、「強制連行」され、「性奴隷」であったことが、確固とした根拠を有する動かし難い歴史的事実とはいえないこと、それらの真否について相当程度の議論の余があることが認識されるものと認められる。そして、控訴人らの主張を裏付ける客観的、具体的な証拠も示されていること、控訴人らが、否定的意味の「歴史修正主義者」という決めつけに怯えることなく、歴史の言説を再検討し、新たな解釈 を提示することが必要であるという控訴人X₃の見解(前記(ア))に沿った主張をしていることが本件映画1から認識できることからすると、一般的な視聴者の普通の注意と視聴の仕方とを基準とすれば、一般的
な視聴者の中には、本件映画1が、控訴人らのことを、歴史の定説等を再検討し新たな解釈を提示しようとしている者(肯定的意味の「歴史修正主義者」)として表現されていると理解する者も相当数存在すると推認され、一般的な視聴者が、控訴人らのことを、客観的な史料等が全くないにもかかわらず、自分の思想や価値観に基づく認識を強硬に主張している者(否定的意味の「歴史修正主義者」)として否定的に表現されていると理解するものとは必ずしもいえないというべきである。
したがって、本件映画1における本件各表現は控訴人らの社会的評
価を低下させるものとは認められない。
映画上映禁止及び損害賠償請求控訴事件 原審 東京地方裁判所令和元年(ワ)第16040号

つまり、一般視聴者全員が否定的に取る要素ばかりと言えないから社会的信用が失墜したりしないよ〜それに自分達でそういった決めつけに怯える事なく主張する事が大事とも言ってるでしょ(意訳)という認定である。

しかし、裁判の本当の問題点はもっと違うところにある。
まず、デザギはインタビューに先立って承諾書を藤木氏達に送ってきている。だがそれはデザギの権利主張ばかりが並び、まるで命令書のような内容で藤木氏と藤岡氏の両氏はサインを拒否し、自身で合意書を作成し、これをデザギと取り交わしている。 

デザギ・ノーマン・エム(以下「甲」という)と藤木俊一(以下「乙」という)は甲の製作する歴史問題の国際化に関するドキュメンタリー映画(以下「本映画」という)については以下のように合意する。
1.甲やその関係者が乙を撮影、収録した映像、写真、音声および、その際に乙が提供した情報や素材の全部、または一部を本映画にて自由に編集して利用する事に合意する。
2.乙が甲に伝えた内容は個人の見解であり、第三者に同意を得る必要、または第三者に支払いを行う必要がないことを確認する。
3.本映画の著作権は、甲に帰属することを確認する。
4.本映画の製作にあたって、使用料、報酬等は発生しないことを確認する。
5.甲は、本映画公開前に乙に確認を求め、乙は、速やかに確認する。
6.本映画に使用されている乙の発言等が乙の意図するところと異なる場合は、甲は本映画のクレジットに乙が本映画に不服である宗表示する、または、乙の希望する通りの声明を表示する。
7.本映画に関連し、第三者からの異議申し立て、損害賠償請求、その他の請求がなされた場合も、この責は甲に帰するものであることに同意する。
8.甲は、撮影・収録した映像・写真・音声を、撮影時の文脈かは離れて不当に使用したり、他の映画等の作成に使用することがないことを同意する。
本書を2通作成し、甲乙ともに本書に署名・捺印致し、それぞれに保管するものとする。
「我、国連でかく戦えり」藤木俊一著より

これでデザギ側が用意した承諾書と、藤木氏側が用意した合意書とこの映画に関して、2つの契約書があるという事になる。
しかし、通常なら後で作られたモノの方に比重が置かれるものと考える事が常識と思われるが、この裁判では裁判官が意図的にこの2つを混同しているように思われる。
合意書作成時点からを時系列で追ってみよう。

2016.9.26 合意書作成
2018.9.30 デザギより10月7日に釜山国際映画祭で世界初公開されますとメール。
2018.10.2 藤木氏、合意に基づいて公開前に確認する必要があると返信。併せて極右という言葉を使用して言及した韓国の新聞記事に対して釈明を求める旨も伝える。
2019.2.28 デザギより4月20日に東京都内で日本初公開される事になったとメールにて送信。試写会への招待状も送付。

これに対して藤木氏は、まずは完成おめでとうと祝位を伝え「公開前に確認の為に私共が視聴することに合意を結んだ事を覚えておられますか。私共はインタビューを誤用された経験がある為、これは重要な事です。」と映画全体の確認を請求している。

この経緯をみれば藤木氏が全面的にデザギの意向を承服していたとは思えないのだが、裁判官が出した認定は『自らの腑に落ちない事があれば、直ちに相手に問い合わせる状況にあったものと認められるにも関わらず、公開前に確認していない事が合意に反するなどの異議を述べなかった事からすると、映画全体を確認する事を約したものとは認められず、取材部分を確認したものと認められる。』と、試写会前にもっと文句言えば良かったのに言わなかったんだから認めたようなもんでしょ、その前にはいろいろ言ってたんだからさ。祝意も言って試写会にも行ったんだし。全体を見せろと強く言ったとは言えないな〜(意訳)と合意書を丸無視の認定なのである。
しかも承諾書には確かに配給、上映とDVD化についても言及しているけれど、藤木氏はこれを承諾出来ないと合意書を作成しているのに『承諾書には商用公開を前提とした記載があり、合意書には公開を前提とする記載があるが、商用を除くような記載がない。』
承諾書には商用公開ってあるけど、合意書には明確にそれを否定してないから商用OK(意訳)と認定とトリッキーな判決にしている。
これでは契約書ともいえる合意書を作っても、全く意味を為さないという事になってしまう、というか、意味はないと裁判官は認定してしまったのだ。
騙し討ちのようにインタビューを受けて、それをプロパガンダ映画として使われても表現の自由という事で交わした合意書まで意味を為さないとされるなら、司法における公平性はどこにあるのか?
そしてそこに特定のイデオロギーに支配されたメディアが結託したらどうなるのか。想像しただけで恐ろしい。
こうした事態をもっと国民が知る為に裁判の可視化と公開は絶対に必要だ。
主戦場裁判について、こちらの藤木俊一氏の著書に詳しく書かれている。是非、多くの人に読んで貰いたい。
記事作成 eve

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