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不器用に生きてる現実を微笑ましく見守るには、あの世レベルの絶対的な安心感が欲しいのだ。

命には、今しかなく、今には全てがある。
その状態が、愛。色なら、光。

納得すると、そうなるもので、
真っ暗な心に、命の光か差し込む。

そこにいれば、現実に左右されずに、
心は安定していられる…

なんてことはなかった。

そうなるような気がしたものの、
全然ダメだった。

どうということもない些細な出来事にさえ、
簡単に気持ちが揺れてしまう。
無常は世の理。感情は、揺れ動くもの。
仰るとおり。わかってはいたんですけどね。

とは言え、
いちいち感情に流されるのは大変なので、
なんとかしたい。

命の中心にある光の柱。
ダンジョンのセーブポイントみたいに、
そこにさえいれば魔物に襲われることもなく、
ステータスも回復する。

どんな現実に直面しても、淡々と生きられる。

心の中にそんな避難場所が欲しい。
というか、この先の人生には不可欠だ。

考え方としては間違っている気がしないのに、
実践できないのは、なぜだろう?

ずっと考えていたのだけれど、
無意識の制限に阻まれていたのだと思う。


命は、死ぬまで今だけ。
過去はデータ。未来は仮説。

時間軸なんか飛び越えていたはずなのに、
死だけは別物だった。

生の向こうにあるものが、
死であり、圧倒的な光。安らぎ。
いつくるかわからない人生のゴール。

生から死へ。
そんな時間軸の中で、命を捉えていた。

けれど、死は命の向こう側ではなく、
命の中にあるものだとしたら?

現実は相対するけれど、
あの世は全てが同等。比較のない絶対値。

相対的なこの世には、絶対は存在し得ない。
存在するとしたら、死の向こう側。

つまり、私が求めている絶対的な安心感は、
あの世にしかない。

じゃあ、死ぬまでお預け?
ということでもなくて、
精神世界の話なので、全ては幻想。

つまり、心の中に限れば、生死は概念なので、
あの世の安心感も得られるはず。

絶対が存在し得ないこの世に、
この世のルールで絶対的を作り出すことは
できないけれど、今には全てがあるのだから、
あの世の絶対的安心感だって、あるのだよ。

視界を奪い、音さえかき消す圧倒的な光は、
安らぎであり、死だ。

その死は、静けさと安らぎと至福と歓喜。
現実をただ圧倒する光。
ただ有難がるしかない
後光みたいなものなのかな?

そんな穏やかな場所から、現実を眺めたら、
必死こいて生きている自分は滑稽というか、
可愛らしいというか、微笑ましいというか、
いとおかしい存在なのではないかな?

絶対値にいたら、現実の幸不幸なんて
くしゃみみたいなものだろうし。

そのくらい突き放して現実を
眺めていられる場所が心の安全地帯。
それは、命の中の死の視点。

命は、生と死を内包している。
陰陽太極図そのものが、
命みたいなものなんだね。

命は、生と死。相対と絶対。
不安定と安定。熱と光。

あの世の安心感の中で、
現実を淡々と生きる。

けれど、安心しきってしまうと、
生きる気力も湧かなくなるから、
情熱が必要?
欲望かな。

この世の情熱。あの世の安らぎ。
現実は相対的だけれど、
精神に関しては、絶対も存在するのかな?

不器用に生きてる現実の自分を
微笑ましく見守るには、
あの世レベルの絶対的な安心感が欲しいもの。

あると腑に落ちて、
あることを感じられたら、
きっとセーブポイントに入れるはず。

もう少し粘って仮説を検証してみよう。

 fumori 

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